「せやからな、そう言うのはタイミングなんやって」


跡部が部室のドアを開けると、妙な光景が広がっていた。

椅子に座った忍足が熱弁しているのはいつもの事なのだが、背筋を伸ばして正座をしている長太郎はまるでテスト前のような表情でそれを聞いており、
いつもなら涼しい顔をしている日吉は難しい表情で忍足の話を真に受けているようだ――一体何事だ?

「よ、跡部。もう生徒会終わったのか?」
「ああ。にしても、今度は何を布教し始めたんだ忍足のヤツは」

鞄を机の上に置き、ロッカーに手を伸ばした跡部がネクタイを緩めながら何気なく尋ねると、岳人は横目で忍足を見て、やれやれと肩をすくめる。
「初キスの講座だってよ」

中学の頃からのダブルスパートナーの奇行にようやく慣れてきた岳人が(慣れてきたと言うよりも諦めたに近い)呆れたような表情で言った途端、
跡部は力が余って開けていたロッカーを閉め、ネクタイをかけようとしていた腕を思い切り挟んだ。

ガンッと言う音がして、忍足たちがこちらに視線を向ける。

「なんや跡部、来とったん」
「・・・あ、ああ」

「ちょうどええ、跡部も言うたってや。
こう手を伸ばすやろ?そしたら相手は動揺するねん、
そこを見計らってこうガバ――ッ「お前が言うと犯罪チックに聞こえるんだって」・・・ガッくん、最近冷たいんとちゃう?」

侑士泣いちゃう、とはらり涙を零すしぐさをする忍足に「ハイハイ」と手を振った岳人は長太郎と日吉に視線を移した。

「お前らももっとマシな人間に相談しろって。遊び人+妄想族の忍足に聞いたってこんなもんだぜ、こう言うのは本命の彼女が居る跡部にでも聞いてみそ?」
「・・・」

跡部の手からネクタイが落ちる。
その様子を見た面々はカチッと固まると、数秒の後、まるでこの世にあらんものを見たような顔をした忍足が椅子を弾いて立ち上がった。

「まさか、跡部まだキスもしてへんのか!?」

忍足の叫び声で我に返った岳人がムンクの叫びのように頬に手を当て、ズザザザと後退する――「あの跡部が!?」
「氷帝学園中等部で唯一千人切りをなしえた跡部さんが!?」
「数ある女を啼かせて来た跡部が!?「侑士、一応教えとくが漢字変換間違ってんぞ

「ある事ない事言ってんじゃねぇよ。今のはあれだ、ちょっと手がすべっただけだ

落ち着き払ってネクタイを拾う様は口で言うよりも明らかで、こういう所が彼女に似てきたのではないかと思う。
これが昔の跡部なら「ハッ、お前らには到底無理な記録だからって僻んでんじゃねぇよ」とか言って鼻で笑うに決まっているのに。


その噂が事実だったかどうかは跡部本人しか知る由もないが、仮に噂だけだったとしても、
誰よりも尾ひれがついた噂を立てられる事が目立つゆえだと確信している跡部はまるで事実のように振舞ってきたのである。冷静な処置は返って怪しい。

とは言え

「・・・まぁ、相手があのじゃしょうがねぇっちゃぁ、しょうがねぇよなぁ・・・」
「ある意味越前君のお姉さんよりガード堅そうですもんね」

「下克上のチャンスやで、日吉」

「だから手が滑っただけだっつってんだろうがッ!」
ついに切れた。
火を吹かん勢いで跡部が怒鳴りだすと、忍足たちは「うわ」と驚いて宥める。

「まー跡部落ち着きぃや」

「あれぇ、跡部今日部活休むかと思ってた」
その時のんきな声が聞こえて、首を巡らせると、
何処かで寝ていただろう、眠たそうな目を擦ったジローが「今日ちゃんと会うんじゃなかったっけぇ」とかすれた声を出す。




「え、先輩東京に来てるんですか?」
「そういえば、越前先輩が夕方お茶するって言ってたな」

「お前ホント越前姉以外に興味ねぇよな。跡部並にすげぇぞ」

思い出したようにあっけらかんと言った日吉に岳人が頬を引きつらせると、忍足は「ええんか?こんな所で油売ってて」と跡部を振り返り、
全員の注目を集めた跡部はシャツに袖を通しながら面白くなさそうに眉根を寄せた。

「部活が終わるまでくんなって言われたんだよ」

どうやらそれで機嫌が悪かった節もあったらしい。

「でも珍しいやん、平日デートなんて。大抵土日に来よるやろ」
「土曜の夜こっちについて、昨日は東京に住んでる友達ん家だとよ」

「・・・それで跡部さんが平日に回されたんですか」


何ともいえない空気が広がって、跡部が無言で眉間の皺を更に寄せると、忍足は椅子に座りなおして頬杖をつく。
「そんで、何処にデート行くん。跡部の事やから超高級レストランで夕食かいな」

中学時代から、跡部が恋愛事情を口にする事はあまりなかった。
もっとも跡部が真剣な付き合いをしたためしがなかった為、部員達もそこは触れないと言う暗黙の了解が出来ていたようなものなのだが、
彼が奇跡とも呼んでいい片思いを実らせてからと言うもの、かえって本気な分、聞きづらくなったのである。

こういう機会はめったにないと言う事で、下手に刺激してまた逆鱗に触れないようさり気なく忍足は尋ねた。

「んな訳あるか。そんな事したってアイツは喜ばねぇからな、せいぜいチェーン店位なもんだろ」
「・・・人間変わるもんやなぁ」

しみじみと言った忍足の言葉に、このときばかりは岳人も何度も頷いて相槌を打つ。
「あの跡部がチェーン店で食事した挙句、手も出してへんとは・・・」――しかし忍足の言葉は例にもよって一言多かった。

「あ」と長太郎が言った瞬間には、跡部が街を破壊するビームを出すのではないかと思う程目元を吊り上げる。

「うるせぇっつってんだろ!」
「・・・お前ら、部室の外まで聞こえてんぞ」

「あ、宍戸さん」

ジローの背後から現れた宍戸は、深いため息をつくと、椅子に腰掛けてる忍足と正座をしている長太郎を見て顔を歪めた。
「おいおい、今度は何の布教だ」

高校二年になってから今まで一年と少し。
忍足は外部から入ってきた下級生にあれやこれやと触れ回り、ちょっとしたものがちょくちょくとはやったのだ。

エヴァン○リオンから始まりSEEDやら、なんちゃら娘。シリーズに入ってきた新しいアイドルやら

中等部から一緒だった連中は「ハイハイ」で済ませているのだが、口先の上手い忍足は洗脳術が得意らしく、続々と信者(?)が現れる始末。
それでもレギュラー+日吉は今まで相手にしてなかったのに、今日に限って何ゆえ信者に長太郎が足を踏み入れかけているのか。

岳人と宍戸いわく、その場のノリで口を開かせたらに勝るとも劣らずだと言う言葉に
が苦笑いを零していたのを思い出していた跡部の傍で、長太郎が「初キスの講義を」と言うと、宍戸はかぁっと頬を染めた。

「な、お前ら部活で何話してんだッ」
「・・・ウブやなぁ・・・」

「ここまで来ると男としてどうかと思うけどな」
「余計なお世話だっつの!ったく、んなもん忍足に習うより跡部に聞いた方がいいだろ。なんたって本命彼女の持ち主だぜ」

あ、話が戻ったと長太郎が言ったと同時に、跡部はロッカーに入れようとしていた鞄を落とす。
その反応を見た宍戸が事の事情を察して「すまん」と謝ると、噛み付かん勢いで跡部が首を巡らせた――「手ぇ滑らしただけだッ」


「ハイハイ、もうええがな」

過剰反応だったのは自分でもよく分かっているのであろう。
跡部は乱暴にロッカーに鞄を投げ込むと、「てめぇら覚えてろよ」と青筋を立てた。

「ぜってぇ今日中に見返してやるぜ」
「お。キス宣言か!」

「ひゅーひゅー(古い)」

「大体、付き合いだして何年たつと思ってるんですか。今更見返すどうのの話じゃないでしょう」

跡部のキス宣言に部室がよくも悪くもざわめきたち、悪乗りしたメンバーが跡部に激励の言葉を送る中で、ジローはあくびをかみ殺すと涙を拭う。


「有限実行が出来れば苦労はないけどねぇ〜」




【ガラナ】




「その時ね、ってば・・・跡部君、大丈夫?」
「あ、ああ」

明らかに挙動不審な跡部を訝しげな顔で見るに、彼は「何でもねぇ」と強制的に打ち切るとぷぃと視線を逸らした。
ノリであんな事を言ってしまった事が頭の中を駆け巡る――ぜってぇ今日中に見返してやるぜ


「・・・」

そう、有限実行が出来るのなら苦労はしない。

跡部の様子がおかしいのは分かっているのだろうが、
無理に聞き出す素振りも見せないが話の続きをしながら笑っているのを見て、跡部は険しい表情を一変、ふと口元を緩めるように笑った。


思えば本当の姿の彼女と会えるようになって付き合いだしてからも、彼女が談笑してくれるようになるまでの道のりはひたすら長かった。
周りの目に怯えて外を出歩く事すら難しく、室内でぼうと過ごす日も少なくは無くて、
心底申し訳なさそうな顔をする彼女の頭を撫でながら「一緒に過ごせるだけでいい」と伝えるのにも一年以上かかったのだから。

その後が見たい映画を映画館に見に行く事から初め、ご飯を食べに外に出てみたり、一時間だけでも散歩してみたり
そうやってゆっくりとしたペースで進んできた今、ようやく話しながら笑ってくれる彼女が居る事に跡部は柄にもなく幸せを感じてしまう


だが、と口を動かしている彼女の唇に視線を落とした跡部は、が視線に気づいて顔を上げると、風を切る速さで目を逸らした。ぐきっと嫌な音がする。



せやからな、そう言うのはタイミングなんやって



跡部だってそう思ってきた。隙あらばと狙ってきた。だが隙が無い場合はどうすればいいのか切実に問いたい

実はというと、思いつく限りの手は尽くしてきたのである。
ロマンチックな映画に誘ってみたり(アクション映画の方が面白いよと悪気なくいわれた)、ちょっとムードのある店に誘ったり(恥ずかしいと凄い剣幕で断られた)。

時には強気に出てみたりしたのだが、キスをしたいなどいえるはずもなく、一瞬でも彼女が躊躇素振りを見せると、途端に強気は首をもたげて萎えてしまう。
世の中付き合うなら二番目に好きな人位がちょうどいいと言うが、まったくもってその通りだ。


想いが強すぎてどう接していいのかが分からないし、どう手を出していいものかも戸惑う

だからと言って彼女を手放す気がまったく起きない辺りも性質が悪い――キスしたいのに、出来ない
とことん自分が情けなくなった跡部は、隠すことなくため息をついた。


その時通り過ぎた女の子達の笑みにがびくりと身体を浮かし、跡部は目を開くと「気にすんな」とすぐさま頭に手を置く。
以前より随分普通に振舞えるようになったが、根本的な恐怖はいまだ拭えていないらしい

そんな彼女が跡部と一緒に居る事事態とても勇気の居る事なのだと言う事を、いわずもがな跡部はよく理解している。


彼女は優しいが、それ以上に弱い
相手が自分のよほど大切な人じゃない限り、ここまで辛抱強く前を向いて歩く事が出来る程強くない

だから彼女が隣に立っている事こそが、跡部を好きでいてくれていると言う十分な証拠になっているのだ

「大丈夫」と力なく笑った彼女は、自分に言い聞かせるように「平気」と言うと、ゆるく笑う――「もったいないから、気にしないように努力しようと思ってるの」


「もったいない?」

「うん。だって跡部君と出かけれる日なんて私が東京に出てこられる日数だし。
いちいち気にしてたら、せっかく会える日がもったいないから・・・大丈夫」


ああ


「跡部君と居る事が怖くてもね、それ以上、一緒に居たいの」



跡部先輩ってさ、姉ちゃんは多分一生関わらないタイプの人間なんだよね、自信があって眉目秀麗で、俺様で。
そう言うの必要以上になくてもいいけど、姉ちゃんが多分持たなくちゃいけないものなんだ



「自分のいい所って分からなかったけど、跡部君があの人達には無くて、私が持ってるものを認めてくれてるのを自信にしようと思って」

隙を見せない癖に、こう言う事を言うのは相変わらず卑怯だ




「何?」

「キス、していいか」


「・・・は?」



跡部の言葉にぎょっと目を見開いたが足を止めて、跡部も立ち止まる。
しばらくそのまま見詰め合って、は遅れてかぁっと頬を染めると「往来で何言ってるの!」と悲鳴に近い声を上げた。

跡部がすれ違った人に会話が聞こえてないか必死で首を巡らせているの頬に手を伸ばすと、彼女はびくぅっと身体を浮かせる。


「ちょ、待った。こういうのはタイミングとか、そう言うのが必要な訳でしてね」

「タイミングがわかんねぇんだよ。あーだのこーだの考えるのは止めだ。俺がキスしたいからする、かっこ悪くて上等じゃねぇか。
さっさと口閉じねぇと、歯がぶつかってもしらねぇぞ――こっちとら余裕なんかねぇんだからよ」

タイミングとか雰囲気とか知った事かと言った跡部に、は瞬くと「跡部君、変わりませんねぇ」と肩を揺らして笑った。どうやら話を逸らす魂胆らしい。

「忍足には人は変わるもんだって感心されたぜ?」
「本当に変化が必要な奴が何いってんだか」

付き合いだけは長い為、そんな見え透いた彼女の考えなど当の昔に分かっている跡部は、眉間の皺をぎゅっと寄せると、話の軸を元に戻した。

「あー、もう黙れ。いいか、黙れ。十秒でいいから黙ってろ
「永遠に喋り続けていいですか」


明らかに逃げ腰のだが、人通りの多いここでは逃げる事も敵わず、すれ違う人々は立ち止まってる彼らを迷惑そうに横目で見てよけていく。
跡部はそんな彼女を見てくしゃりと笑うと、「ばーか」と彼女の前髪をかきあげた。

「そしたら強制的に黙らせるに決まってんだろ。あーん?」

ゆっくりと跡部が腰を曲げ、がひぃっと息を呑むのが近くで聞こえる。
道行く人々が「え」と声を上げるのを聞きながら、跡部は初めてのキスを彼女に落とした。


今ならば、あの言葉を伝えられるような気がする

「なぁ、俺だけを見てれば、他のヤツの視線なんて気になんねぇだろうが。
俺だけを好きで居れば、傷つく事もねぇだろうが。誰よりも幸せにしてやるよ」




□おまけ□

「・・・初キスが公開プレイって・・・こんな羞恥プレイ有りですかッ!?レモンの味か確認する余裕もなかったですよ!?」
「てめぇが余裕ある時なんてあるか?」

「ありませんね(キッパリ)それにしても、こんな往来でバカップルみたいな事する日が来るとは夢にも思いませんでした・・・ヒィィイイイ!」(思い出した)
「・・・」

「でも、あれですね。人がイチャイチャしてるの見ると、殴りこんでやろうと思う位腹が立ちますけど、自分がするのって違うもんなんですねぇ。
あー、今の見てた人達絶対“こんな所でいちゃつくなよ!”とか思ってますって。殴りこまれたらどうしよう」

「ひがんでるだけだろ。ほっとけ」
「それは過去の私に喧嘩売ってるんですかね?そうですよ、思いっきりひがみですよ!悪いかッ」

「あーもう、うるせぇっつってんだろ。ごちゃごちゃ言ってるとまた塞ぐぞッ」

「何三流ドラマのお決まりみたいな台詞言ってるんですか。跡部君にそんな余裕ないの知ってますよー。
第一、手がすっごく震えてた。第二、唇がすっごく熱かった!ハッハッハ、もう余裕ないの通りこして開き直れそうですよ


「・・・いい度胸じゃねぇか。よっぽど公開プレイが癖になったみてぇだな」
「は?」

「俺はとっくの昔に開き直ってんだよ。てめぇに付き合ってたらジジィになっちまう、これからは俺様のペースについて来い」
「何無茶言ってるんですか!ちょ、顔近い・・・ッぎゃ―――ッ!(断末魔)
(跡部君しか見てませんよなんて絶対に言ってあげないんだからッ)」


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なんかもう私が恥ずかしいです