ドリーム小説
教科書とプリントを小脇に抱えて走っていた。
トレイン先生に聞いておきたい部分があるが、この後予定しているミステリーショップでのアルバイトまで時間に余裕がない。ホームルーム終わり、トレイン先生の準備室へ駆け足で向かうことにした。
腕時計を確認した拍子に、ドン、と何かにぶつかって尻餅をつく。壁のようにそびえ立つ何か。自分の足元から少し視線を前に移動すると、よく手入れされ艶かな革靴。そこから辿って見上げると、ニマァ、と笑ってこめかみあたりに手を添える男。
「なぁにオレにぶつかってんの?小エビちゃん」
はすぐに「すみません!」と謝って立ち上がった。
ニヤニヤしているところを見ると、機嫌は悪くないようだ。よかった。彼の機嫌は、爆弾の導線を切るような賭けだ。
「私トレイン先生のところに行くので、失礼しますね。ぶつかってしまってすみませんでした」
腰を折って丁寧にもう一度謝ると、はフロイドの隣を通り過ぎた。はずだった。何故か隣をぴったりくっついて歩いている。
が急足で歩いているとはいえ、コンパスの長さが違う。彼は大きな歩幅でゆっくりとついてきていた。
「え?あの?フロイド先輩?」
「なにぃ」
「どこか向かってらしたんじゃないんですか?」
モストロラウンジとか。口にはしなかった。
口に出した途端「あーあー小エビ妹のせいで行く気無くなっちゃった?」とか言い出すからだ。前科あり。
「散歩してんの。だからぁ、オレがどこ向かったっていーでしょ」
「お散歩、ですか」
先日みたいに突如追いかけっこが始まるよりは随分マシだ。
ただ懸念があるとすれば、トレイン先生の部屋の前についた時だ。彼がそのままバイバイしてくれるとは思えない。
彼が想定の範囲内に収まってくれるとは到底思えないが、可能な限り起こりうるパターンと対策を考えていると、「ねぇ小エビちゃん」と思考を遮られた。
「きーてよ。昨日、ジェイドがキノコパスタですとかって、ほぼキノコオンリーの料理出してきやがってさー。マジまだ口の中でキノコの味するぅ。サイアク」
「ほぼキノコのパスタとは…」
うげぇ、と舌を出して顔を顰めて見せたフロイドにはクスクスと笑った。今日は本当に機嫌がいいようだ。このままモストロのバイトに行ってくれたらいいけれど。
「小エビちゃんはぁ、昨日何食べた?」
こてん、とフロイドが首を傾げた。
はそこから2歩ほど歩いたところでピタリと止まる。数秒間の沈黙の後、クルッと回転して振り返った。
「なるほど」
フロイドの顔を見つめたまま、は真顔で頷く。
「はあ?」予期せぬ返答に、フロイドが眉間に皺を寄せた。
は体の向きを戻して、止めていた足を進めた。1メートル進んだ先のトレイン先生の準備室。ドアノブに手をかけてから、彼を再度振り返る。
「今度は姉ちゃんの得意料理でも聞き出したかったんですか?
ジェイド先輩」
垂れていた眉尻が、ゆるりと上を向いた。
彼は口元に手を持っていくと、獰猛な歯を見せてニタリと笑った。悪い顔で笑う時は本当に同じような顔している兄弟だ。
「おや。どこでお気づきになったのですか?」
「フロイド先輩は私の昨日の晩御飯なんて、ミリも気にしたりしません。あと、靴。見たことないやつだったから」
「なるほど」
今度はその4文字をジェイドが口にする番だった。
「フロイドのこと、靴までよくご覧になっているのですね」「よく自慢されるので」「兄弟と仲良くしてくださってありがとうございます」格好はフロイドなのに、吊り目で微笑む顔はジェイドそのもの。頭がバグりそうだ。
「まさかとは思いますけど、それ聞くために入れ替わってたんですか?」
「まさか。偶然ぶつかられまして。ついでにお伺いしておこうかと」
「ついでで私をダシに使わないでもらえません?」
「先日ジャミルさんも似たようなことを仰っていました」
クツクツと笑うジェイド。おいおいジャミル先輩、注意するならしっかりしてくれないと全然反省してないぞこの人。…誰に何を言われても全く反省しなさそうではあるけれども。
は握っていた命綱がわりのドアノブを回す。
もう片方のウツボなら、疲れることはあっても出し抜かれることはない。だがこのウツボとは長居は危険。
「それ相応の対価を支払ってもらえれば、お手伝いして差し上げないこともないですよ」
「随分と"お姉さん思い"な方ですね」
「私が助けられないところでちょっかい出されるよりマシなんで」
はにっこりと微笑んで、「決まったらご相談ください」と告げると、逃げるように扉の奥に消えた。
「ねぇえーーー!マジでヤダ!オレ帰りたくない!
小エビちゃんとこいく!!」
廊下で出くわすなり巨体が巻き付いてきて、は小エビよろしくびっくりして固まってしまった。タッパがでかくて圧があるし、なにより力が強くて苦しい。でもいい匂いがする。え、いい匂いすぎんか?香水?いや地でこの匂いなのか?人魚ってみんなこんないい匂いすんの?(困惑)
吸いっぱなしだった息をロングブレスで吐き出した。若干混乱状態が解消された気がする。
「どうしたんですかフロイド先輩」
そっと目の前にあるお腹あたりを押して距離を取ろうとしたのにビクともしない。本当ビクともしない。引く。
「口の中キノコの味すんの。
毎日毎日きのこ食わされてオレきのこになっちゃう」
「たしかにほんのりとしたダシの香りが」
「は?」
「乗ってあげたのは私なのに…」
凄まれた挙句さらに締められた。理不尽。
息が苦しくてドンドンと腹部もとい壁を叩く。マジで壁だなコレ腹筋どうなってんだウツボって。息吸えないといい匂い嗅げないしメリット一個もないじゃん!
「小エビちゃんとこまともな食材なさそうだけどキノコよりはマシでしょ」
「失礼な。サムさんに譲っていただいたお野菜や食堂のゴーストたちに譲っていただいたお肉がたくさんありますよ。あとツナ缶」
「アハ。オレ、しょぼい食材でも美味い飯作れちゃうよぉ」
「さては話聞いてませんね?」
喋れる程度には腕を緩めてくれたけれど、全く顔は見えない。服を着た壁しか見えない。というかこの状況は心臓に悪い。ときめきと死の予感の両方で。
「じゃあ今日オンボロ寮で晩飯作ってあげんね。
リクエスト聞いとくー」
「マジすか!前食べさせてもらったシーフードパスタがいいです!!」
「気が向いたらね」
「ひゃっほー!」
オンボロ寮にフロイドが来るなんて知れたらが卒倒するかも知れない。グリムはハーツラビュルに行って帰ってこなさそうだ。は、二人には内緒にしておこうと心に決めた。
あ、そういえば
「ちなみに昨日のうちの晩御飯知りたいですか?」
残念ながら出会い頭からホールドされているので足元は確認できていない。これほどのスキンシップを、入れ替わっていたとしてもジェイドがするはずはないと思うが。いや彼なら明確な目的があればやりかねん。
グルグルとそんなことを考えていると、パッと体が離され自由になった。2歩ほど後ろに下がって見上げると、フロイドはキョトンとした顔で首を傾げている。
「は?興味ねーけど」
先日同じ顔で尋ねられた質問なのだが。
は、にっこり笑った。「ですよね!」
「小エビちゃん、なぁに笑ってんの?キモいんだけど」
「まぁまぁそう言わずに。晩御飯、楽しみにしてますね」
「んー」
そのまま遊びに行こうと連行される前に、は次の授業に行ってきます、とそそくさと立ち去った。
去り際にこやかに手を振るフロイドを思い出す。
結局その晩フロイドは来なかったし、次の日会った時には「あったねそんなこと」と平然と言われた。ですよね。