「ごちそうさまでした」

遅めの朝食。むしろそれを超えて昼食とも言うべきものが済んだ食器を重ねて、
両手を合わせそう言うと、視線を上げて壁にかかっている時計を見た。

一時半――今頃は昼休みの最中だろうか

父も母も職場に行って、家に一人なのを言い事に、午前中一杯を睡眠にあてたは、
食器を台所に持っていくと水道に手を伸ばしてしばし留まる。

「ま、いっか。後で洗って先に風呂はいろ、風呂」


ガスの電源を入れて風呂場に行くと、廊下と風呂場を繋ぐドアを閉めて服を脱いだ。

鏡を一瞥。

今年で19歳になったとは思えない自身の体系に嫌気がさしてくるのは毎度の事だ。
胸がでかいのはよしとしよう――しかしこの腹と尻と太もも、プラス腕についたぷるんぷるんのお肉が恨めしい。

と、文にするなら遠まわしな表現で表せるのだが、ようするに世間一般的には太ってると言う位置に値するのだろう。
――もっとも、私は某忍者漫画に出て来るキャラクターの言葉を借りて、“ぽっちゃり系”と称しているのだが。


はぁ、と重たいため息をついて腹の肉をつまむ。


「テニスの世界にトリップしたいなぁ〜」

ポツリと呟いた言葉に、自身で苦笑い。
常日ごろから妹と一緒に“トリップしたい”と言っているけど、神様はそう簡単に現実を変えてはくれないらしいく、
繰り返されるつまらない日常をぼんやりと過ごしているだけ。

「リョーマのお姉さんになって、少年達の青春を遠くから見守っていたいわ…ついでに痩せれたら文句ないんだけど」

言うだけタダだよね、とブツブツ一人ごとを並べながら風呂のドアを開く。


青春、と言う言葉とは随分無縁の世界に生きてきたと思う。
華の高校生活も、中学校生活も、勉強に熱心になったこともなければ、スポーツに打ち込んだこともない。

好きな人は居た、居たけど、まぁ上手くは世の中いかないもので。

結局世に言う「腐女子」街道をまっしぐらに突き進んできたわけだ。


好きなタイプは? 越前リョーマ(頂点)・鳳長太郎・甲斐裕次郎・南健太郎・切原赤也に幸村精市。
ちなみに立海キャラはほぼ愛だ。
テニキャラをはずしても両手に余る程居る――シャルナークに、ニコルに、イザークその他もろもろ。

我ながら素晴らしい現実逃避ぶりだわ、と口端を引きつらせて、はシャワーを出すと髪を洗い始めた。




【第1話:Wトリップ】




お風呂から鼻歌交じりに上がると、タオルを取ろうと棚に手を伸ばした――が、ない。
きょとんと瞬いたは、よくよく洗面所を見ると、随分と模様替えされてることに気がついた。

おまけに風呂場も大きくなってないか?

風呂に入りながら寝るという器用な芸当が出来た覚えはないが、一応念のため目を擦って辺りを見てみる。
変わらない景色――風呂に入ってる間に業者が来て風呂を改築したとか?


嫌々、夢よりももっとありえない事だ。
ふと時計を目に映すと、「は?」と素っ頓狂な声をあげて、ぽかんと口を開ける。


見間違いなはずがない。
現在の時刻七時。

五時間半風呂に入ってた?

まったく状況が読み込めずに、眉根を寄せたは鏡を見ると、想像し得ない現状に「ぎゃ」と悲鳴を上げた。


程よい肉つきの胴体、胸は少し減っているが――腹回り、太もも(以下略)など劇的ビフォーアフターだ。
おまけに自分の顔とは思えない程顔立ちが整っている。と言っても世間一般的には“普通”に属する位なのだけど。

わなわなと震えたは、鏡に両手をつくと、今度こそ近所に響き渡りそうな声で叫んだ。
な、何じゃこりゃぁあああああ!


途端にバタバタと扉の向こうが騒がしくなって、押し問答する声が聞こえる。
ちょ、親父。邪魔だから向こう行ってよ」
「何言ってんだ。娘のピンチに駆け寄るのは親として当然のことだろう!


だから邪魔だってば――、どうしたのさ?」


ガラリと扉が開いて、振り返ったの瞳に、鳩が豆鉄砲食らったようなリョーマと、南次郎の間抜け顔が映る。
「い――ッ」

ひぃっと息をのんだは、とりあえず両腕で胸を隠すと、あらん限りの声で叫んだ。
「出て行ってよ――!」

「スマン!」と言う南次郎の言葉が途切れるほど強く、ピシャリとリョーマがドアを閉める。
は肩で息をすると、とりあえず手近にあるバスタオルをひったくって顔に押し付けた。

脳裏に焼きついた、リョーマの顔が離れない。
なかなか見られない、驚いた顔と言う貴重なショット。

バクバクと高鳴る心臓に蓋をするようにプルプルと首を振ると、鏡に首を巡らせて瞳を凝らす。

一体全体どう言う事なのだろうか、遅ればせながらに現状を理解していくのだが、理解が追いつかない。
風呂から出てきたら越前家でした――と、言う事はつまりその、夢小説で増えてきたトリップと言うジャンルが浮かぶ訳で

まさかまさか、トリップした?それともこれは夢?

とりあえず落ち着こうとゴシゴシバスタオルで身体を拭いて。
これが痛くなかったら夢だって事だけど、生憎肌がひりひりして赤くなってしまった。

下を見ると、どうやら脱ぎ捨ててあるらしい服はのもののようだ。向こうの服とサイズがあきらかに違う。

上服を来てジャージを取ると、ポケットからコトリと携帯が落ちてきた。
こう言う時夢小説なら、神様とかからメールが入ってるのがセオリーだよな、としゃがみこんで携帯を開く。

しかし残念ながら一件もメールは来ておらず、アドレス帳を引っ張りだすと、は再び我が目を疑った。

見知った友達やら家族やらのアドレスが一切合財消えている。
それに変わって入って居るのは、青学三年メンバーと越前家族の電話番号とアドレス。
そしてなぜか日吉のアドレスまで入っていた。

おいおい嘘だろ

カチカチとボタンを押していると、「あ」とは小さな声をあげた。


随分見知った妹の名前だ。
まわりも驚くほど仲が良く、そろって腐女子。

いたって会話は濃いものが多く、両親にはあきれ返っていたのだが。

のアドレスが残っていると言うことは、彼女もこちらに来てるということか?

もしかしたら越前家に居るのかもしれない!
慌てて携帯をポケットの中に入れて立ち上がった途端、トントンと控えめにドアが叩かれ、
外から小さくリョーマの声が聞こえた。

、ご飯できたって」

「あ、うん」と返事を返したものの、どうしよう、と一瞬躊躇してしまう。
トリップの王道と言えば、一からこちらの生活を始めるか、すでに最初から設定みたいなものが決められているか。

この場合どう考えても後者と言うことになる。

と言う事は上手く立ち回らないと不審に思われるわけで
上手くやれるかしら?しかしながらいつまでも風呂から出てこないほうが尚更不審に思われる。

うっしゃとは両手で頬を叩くと、ドアの取っ手に手をかけた――女は度胸だ

ガラリとドアをあけると、リョーマはドアの側で待っていたようで、
ちらりとこちらを見ると「随分長風呂だったね」と言って歩き出した。

はあはは、と乾いた笑い声をあげると、きょろきょろと辺りを見渡す。
の姿はない。


と言うことは別の所にトリップしたという可能性が高い。
はリョーマの所にトリップしたい、姉になりたいというのが口癖だったが、はどうだったか。

確か

「赤也の妹になりたい」

ひくりとは頬を引きつらせると、ポケットの中の携帯を見た――まさか、赤也の家にいたりして


落ち着け、19歳。
アドレスが残ってるって事は連絡を取る事が出来るということだ。

萌えをこよなく愛するあの子は、赤也に会った途端
「森久保さん!」とか「げんき君!(テニミュ)」とか言って抱きつきそうな気がするが…。

ますます不安になってきて、眩暈を抑えるようにこめかみに手を添えると、
リョーマがリビングと思われるドアから顔を出した。

「何してんの、早くきなよ」

「あ、うん」


そう言えば向こうのは19歳だが、こちらのはどうなのだろうか。
体系から察するに若返ってるような気がするけど、
もし日々常々言っていた事が現実になっているのなら、はリョーマの姉と言う事になってるはず。

と言うことは中学二年、もしくはそれ以上。

手っ取り早く聞き出すにはどうしたらいいのか、と思いながらリビングに入ると、
越前家はそろっていて、リョーマの隣の椅子が空席になって居る事から、どうやら自分はここらしいという事を察した。

椅子を引いて座ると、待ってましたといわんばかりに、いただきますと夕食を食べ始める、どうやら家族らしい人たち。

何から聞き出せばいいか、どう切り込んでいいかを迷いながら箸を手にとると、焼き魚をつつく。


倫子さんはお味噌汁をすすると、「そう言えば今日の学校はどうでした?さん」と穏やかに聞いてきた。
が、こちらは内心まったく穏やかでない。

背に冷や汗をかきながら「え」と言うと、しどろもどろで返事を考えた。

学校と言うことは、中二から高三までと言う事になる。あ、大学も含まれるのか。
ここは「うん、楽しかったよ」で乗り切るしかないだろう。

「うん、楽しかった「生徒会の雑務に追われて大変だったんでしょ?」」

突如かぶさるようにかかった声に、はあやうく箸を落としてしまいそうになった。
リョーマはそんなを一瞬怪訝そうな顔で見て、ご飯に向き直る。

「桃先輩が言ってた。昼休み中先輩がバタバタ走りまわってたぜ、って」

「あ、そう。うん、大変だったかなぁ」


って事は中三か。おお、随分若返ったな私。

慌てて取ってつけたように言ってぎこちなく微笑むと、倫子さんは「そう」と緩やかに微笑んだ。
おお笑顔が素敵だ。

アニメとか原作では顔が出たの見た事ないけど、美人さんだなぁやっぱり、と妙に感心してしまう。
どうりで子どもが美少年なはずだよ。

うんうん、と意味深に頷いていると、リョーマがひょいと横から手を伸ばして卵焼きをかっさらった。
「あ」と声をあげたときには時すでに遅し。

リョーマは卵焼きを飲み込むと「ごちそうさま」とニヤリ笑う。

ちくしょう、かっこいいぞこの野郎。
はもう一つの卵焼きを箸で取ると、リョーマの皿に乗っけた。

「はい、どうぞ」

そう言うと、リョーマはまるでこの世にあらんものを見たような表情でこちらを見てくる。
しまった、早まったか。

あの笑顔がみたくてついやってしまったのだけれど、どうやらボロを出したらしい。

「…具合でも悪いの?」
「いえ、全然。いたって健康ですよ」

「だっておかずくれるなんてめったにない事じゃん。特に和食は」

そうか、リョーマって確か和食が好きなんだよね、だけど洋食が多いんだっけ。と思う。
今の言葉から察するにどうやらこちらのも和食派らしい。

「たまには弟に優しくするのも姉の務めでしょ」

苦し紛れにそう言うと、はお茶に手を伸ばして、湯のみに口をつけた。

「…ありがと、姉」


ぶっ


思わずお茶を噴出してしまって、ごほごほと咳き込むと、あらあらと倫子さんがティッシュを差し出してくれる。
「ごめんなさい」
口元を拭うと、リョーマに視線を合わした。

「あのさぁ…」

ボロを出しちゃだめだ。だめだと思ったものの、萌えには勝てないらしい。

「今の、も一回言ってくれる?」














「あー疲れた」
肩を叩きながら階段を上ると、注意深く部屋のドアに目を走らせる。

あれから南次郎氏に捕まり、最近の娘の発育は凄いと熱心に語られた。
やっぱり見えてたよね、あれって。

って事はリョーマにも見られたって事で――うわぁ恥ずかしい、変身後でよかったぁ

リョーマは一足早く部屋に戻ったみたいだから、このドアのどれかに居るんだろうけど、自分の部屋が分からない。
とりあえず片っ端からあけてみて、違ったら何か適当に言い繕うか、
と思った時、ドアにかけられたネームプレートが見えた。



あ、この部屋だ。
さっさと入ってに電話しよう、と思った時、携帯から着信音が流れる。

慌ててポケットに手を入れて携帯を取り出すと、ディスプレイには“”の文字。
ドタバタと部屋に入って通話ボタンを押して「もしもし」と言うと、慣れ親しんだ声が聞こえて来た。

『姉ちゃん、やばいよ。何がやばいって全部』

トリップしてまだ数時間だけど、酷く懐かしく感じてしまう。
ああ、妹が一緒でよかった。

「意味わかんないけど分かった」

正確に言うと、言ってる言葉の意味は分かんないけど、全部がやばいって事は理解できたって意味だ。
赤也の家に居るの?と聞こうとしたとき、先手を打って向こうが言う――『今赤也の家に居るんだけどさ』

やっぱり赤也の家にトリップしてたか

「偶然だね、私もリョーマの家に居てさ」


数秒の沈黙の後、お互い言いたい事は同じだったのか、言葉が被った。
「『どうなってんのこれ』」


一体全体意味が分からない。
戸惑うばかりのとは違って、は嬉しさ交じりの声で電話口の声が跳ね上がる。

『…ねぇトリップ?やっぱトリップなの!?』
「二人で夢見てないならそう言う事だね。ってなんでやねん!」

風呂場をあけたらそこは未知の世界でした、なんてありえねぇなぁ、ありえねぇよ(混乱)
理解に苦しむ現状についていけず四苦八苦しているのにも関わらず、向こうは大して動じてないようだ。

『えぇ!?姉ちゃんそんなキャラだった?』
「ん、いやちょっとびっくりしてキャラ変わっちゃったよ」

「そう言うこともあるよね」
『うん、あるよね』


再び沈黙。
訂正、やはり向こうも現状についていけてないようだ。

まああの子の場合、萌えが勝って現状なんて二の次なんだろうけれど、とはため息を零す。

そう言えば


「ちなみに、痩せちゃった上に顔まで変わっちゃって、
うるわしの皆川さんボイスで“姉”って呼ばれたんだけど」
『あたしもつかめる程度の胸があったよ。
プラス森久保さんボイスで呼び捨てで呼ばれたし赤也と手も繋いじゃったよ』

シスコンか、やっぱ赤也はシスコンか!
いまどき兄弟で手繋ぐなんて希少価値だぞ!

ああ、でも

「私も負けてないぞ、裸みられた…変身後だけど」

どうせなら見るより――『つか見られるより見たいぞ』
さすが我が妹、考える事は同じだな!

しみじみと頷くと「それは同感」と言って、ベッドの上に腰掛ける。
「携帯見てみたんだけど、
百歩譲って仮にこれが現実なら前の世界の電話番号はあんた以外消えてたよ。そっちは?」
『同じデス』

向こうの達はどうなったのだろうか。
両親は?友達は?今頃向こうで大騒ぎになってたりして、と思うと、血の気が引いてくる。

トリップしたかったから嬉しいのはもちろん嬉しいのだけれど、
それはあり得ない事だから夢見てたわけで、いざ現実になりましたとなると対処の仕様がない。

向こうでの自分達の存在が消えていた、となったらそれはそれで凄く淋しいし。
親も、数少ないけど友達も、この世界のキャラと同じくらい大好きだから

しかし、いつまでも感傷に浸っている場合ではない。
あまりにもリアルすぎだから、もう現実としか思えない、姉の自分がしっかりしなくてはいけないのだ。


「とりあえず、現状確認として私は中三。そっちは?」
『そのまんま中二だよ。クラスで浮いてるみたいだけど』

「って事は赤也と双子?」
『うん、妹』


そろいもそろって夢みていたことが現実になったって事か

「クラスで浮いてるって言うのはどうやって知ったの?
『日記だよ。今はその子のキャラ演じてるけどいつボロが出るか・・・』

「クラスで浮くなんて正反対のキャラだからね」
『YESボス。姉ちゃんはなにかわかった?』

「私はついさっきまで南次郎氏に捕まってたからね。今から何かわかりそうなもの探してみる」

もしかしたら日記とかあるかもしれないし、とりあえずここの“”さんについて少しでも情報を調べておく必要がある。
それと同時に、と情報交換する必要があるのは当然だ。

「とりあえずあんたはそのキャラでいて、明日十二時東京駅で落ち合って作戦会議ね。
もっともこれが夢じゃなかったらだけど」
『夢じゃないことを神に願うよ。・・・どうやって見つけるの?あたしも顔変わってるよ』

「写メがあるでしょ。多分アドレスも変わってないから、送ってきて」
『OK。じゃあロータリーにいるからあたしを見つけて』


って自分も探せよ。
まあいいけど、とはぼんやりと考えた――夢じゃない事を神に願う、かぁ…確かに、これが現実だったら嬉しいな
念願かなってリョーマのお姉さんになれたことだし、
中三って事は彼らの青春を思う存分堪能できるわけだし。


「わかった。くれぐれもボロを出さないようにね」

念のため念を押してが言うと、おやすみ、と返事が返ってきた。
大丈夫かなぁ、と苦笑しながらも、おやすみと言うと電話を切る。

携帯を枕元に置いてベッドの上に転がると、布団に頬を押し付けた。

姉…かぁ…

リョーマはキャラの中では一番好きだ。もう好きを通り越して愛に近い。
なんて言ったってドキサバをプレイしていて、主人公の小日向に嫉妬したくらいだ
でももしトリップしたとき、自分を好きになってもらえる訳がないから、姉と言う立場で彼の一番になりたかった。

だけど、いざとなってみると、何だか複雑な気分で

姉と呼ばれることが嬉しい自分と、一人の女の子としてみてもらえない自分が居る。
まぁもっとも、彼はこちらの世界の“”だと思ってる訳だし、
自分もこちらの世界の“”さんを演じていく事になるだろうから、自分を見てもらえることなんてないのだけれど。

とりあえず、明日は近所の本屋さんを探して、ここ周辺の地図を買おう、とは瞳を閉じた。
色々疲れる事が多すぎた。少し寝てから日記を探そう、もしかしたら戻ってるかもしれないし。


目が覚めて、夢じゃなかった時、私は一体どうやって過ごしていけばいいのだろうか