休みの日だというのに、リョーマは桃城から呼び出しをうけてストリートテニス場まで出向くハメになった。
カルピンとゆっくりと過ごすはずだったのに、と言うと、桃城はにかっと笑って言葉を返してきたのだ。


『どーせ何してもテニスの事が気になるに決まってんだろ。俺達テニスバカなんだからよ!』

テニスは好きだけどバカは桃先輩だけで十分ッス、と言うと、容赦なく殴られて、
なんだかんだいいながら結局家に帰ってこれたのは七時を少し過ぎた頃だった。

リョーマが帰宅すると、キッチンの方からパタパタと駆け回る音が聞こえ、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。
今日は確か菜々子は大学の付き合いで遅くなると言っていたし、いつもなら鬱陶しい出迎えをする父の姿も見当たらない。


小首を傾げてテニスバッグをおろすと、ドアを閉める音が聞こえたのか、
リビングからおたまを片手にが顔を覗かせた。
母さんの手伝いでもしてるんだろうか、珍しい事もあるもんだとリョーマは思う。

とは言っても口にすれば怒られるのは明白なので、何も言わずに帽子を脱ぐと、バッグの上にのせた。


「おかえり、リョーマ」
「…ただいま。親父は?」

「お母さんと一緒に急用が出来たって電話があったよ。リョーマにもメール来てるんじゃない?」


ポケットから携帯を取り出すと、確かにメールが来ている。
――急用で出かけるからちゃんに頼んでお弁当買ってきてもらうようにしておくわね


お弁当を買ったのに何故おたまを持って出迎える必要があると言うのだろうか。
それに先ほどから香るこの匂いは、弁当を温めたくらいでは発生しない類のものだ。まるで料理をしているような。


さぁっとリョーマは血の気が引いていくのを感じると、乱暴に靴を脱ぎ捨ててに駆け寄り、両手を取った。
取られたは、突然手を握られてどくんと心臓が高鳴るのを感じ、慌てて「何、急に」とくぐもった声をあげる。

リョーマは両手交互に視線を走らせると、の背後のリビングを見、
テーブルに並べられた夕食を見ると、状況を理解しておらずおどおどしているを見上げた。

、何か変じゃない?」
「…何が?」

「まるで別人みたい」


びくぅっとは肩を揺らし、赤くなった頬を真っ青に変えると、
目線を天井に泳がせて「何言ってるのよ」と口端を引きつらせる。

別段怪しい行動を取った覚えはない。むしろ普通の兄弟を演じていたつもりだ。

背中で冷や汗をかいているとは対照的にリョーマは訝しげな目でを見ると、夕食を指差す。


「越前家家訓第6条、に包丁、その他一切の調理用具を持たすべからず」


は?――は目を丸くしたものの、じわじわとその意図を理解してくると同時に更に顔色を悪くしていき、
脳内にリョーマの言葉を反響させると、しまったと表情を強張らせた。

つまり、こちらの“”は料理が出来なかったということで

両親共働きのため、と二人の事が多かったは、料理をする事は当然のことだと思っていた。
ので、まさか料理が出来ない言う頭の隅にも浮かばず、あまつさえ包丁すら触れなかったとは…。


――帰りがけにお弁当でも買って帰って貰えるかしら?


あの倫子の言葉は、料理か弁当かと言う選択肢だと思っていたが、弁当か惣菜かと言う意味だったのを今更理解する。


ど う し よ う


にボロを出すなとあれだけ念を押しておきながら、あっさりと自分が出してしまったのだ。
ここは上手く立ち回らなければ、ばれる以前に姉の沽券に関わってくる。

はあははと乾いた笑い声をあげると、リョーマから自分の手を離し、おたまを持ち上げた。

「今日会いに行った友達がね、ご飯が弁当だって言ったら帰りにうちによってくれて、作ってくれたの。
私はそろそろリョーマが帰ってくる頃かなぁと思って、味噌汁を温めてただけ」
「友達って…神奈川に住んでる後輩って子?」

神奈川に居ると、東京に居るリョーマが会う確立は低い。
ましてや、その場にが居ない事なんてないだろう、ばれる可能性は少ない。

そう思って自分を宥めると、は大きく頷いた。


「そうそう。大丈夫だよ、いくら私でもレンジでチンとお味噌汁温める位は出来るって!」
「って言うか、いつその子と知り合ったの?」


ギックゥ!!


完璧に急所を突かれた!
朝会いに行くって言ってた時から思ってたんだけどさ、と言われて、は言葉をなくす。
どうしよう、何て言ったらいいんだろうか

しどろもどろになっていると、リョーマはその顔を見つめて、
「ま、言いたくなかったら別にいいけど」と言ってすっと横を通り過ぎた。


マズイ、これは非常にまずい!


「あ、あのね!この前の青学の練習試合の時、来てた子なの。たまたま知り合って、意気投合したって言うか」
咄嗟に出たいい訳だが、リョーマに通用するだろうか

リョーマは足を止めて振り返ると、「やっぱり来てたんだ」と口端を持ち上げた。

「あの時の後姿見たんだけどさ、あれだけ行かないって突っぱねてたから気のせいかと思ってた」

そうそう、それきっと私だよ。と、身振り手振りをつけながらのオーバーリアクションを返すと、リョーマは目を細めて笑う。
なんと貴重なショットだろう。是非写メを取らせて頂きたいのだが、その思いをぐっと飲み込んでは微笑み返した。


これで言いにくかった理由が、試合を見に来てたことを隠していた事だと思われればありがたい。

「まぁ、たまには弟の勇士を見学しようかと思ってね」
「だったらマネージャーやればいいのに。手塚部長も大石先輩達も推薦してたのに、興味ないって一刀両断したんでしょ」


そんな事があったんだ


「信用出来て仕事も出来る惜しい人材を逃したって、大石先輩がこの間ぼやいてた。
特に手塚部長が抜けたからね、少しでも戦力が欲しいみたいだし」

そっか、時期とかあんまり考えた事なかったけど、手塚が抜けてるって事は都大会後って事になるのか、とは思う。
リョーマはそんな彼女を見て「何呆けた顔してんのさ」と言うと、椅子を引いて腰掛けた。

「味噌汁」

「あ、はいはい」

なんかまるで新婚みたいだな、嫌々私達は兄弟なんだし、
とパタパタ台所に駆け込みながら、はにやけた頬を引き締める。

そんな彼女の後ろ姿を見ながら、リョーマは頬杖をつくと、ため息を一つついた。


『隠れて試合を見に行きました。いつも遠くから応援してました』


「ホントは毎回試合見に来てたくせに」
俺、知ってた
何も言えなかった俺も俺だけど



ねぇ姉貴、逃げ出すなんて卑怯だろ

姉貴じゃない人の口から、試合見に来てたなんて言われるのは複雑だよね

そう言って卵焼きを掴むと、ホイと口に入れる。

ああ、姉貴は本当に居なくなったんだ

「…だし巻き卵…美味い」

美味いのに なんでこんなに 苦く感じるんだろう


並べられた料理を見て、複雑な表情をしているリョーマを知る由もなく、は味噌汁をついでいたのだった。





【手料理と手紙】





茶碗の片付けは、リョーマも手伝ってくれたので割りと早い時間にすみ、
しばらく二人でテレビを見ていたものの、とりたてて何か面白い番組があったわけもなく、早々に部屋に引き上げた。


一人になった部屋で、は鞄から写真を取り出すと、机に立ててあった写真たてを手に取って収める。

――過去とか未来の事を憂う暇があったら、今この現状をどう乗り越えるかを考えたほうがいいって


の言う事は正しい。だからと言って割り切れるかといわれれば、それはまた別の話しだ。
しばらく写真を眺めていたものの、
気を改めるようには机の横に置いてある学校の鞄をとると、机に貼ってある授業表を見た。



今は、どう彼女を演じるかを考えなければならない。
もう少し情報があると助かるのだけれど


そう言えば、リョーマは試合に誘ったが突っぱねていたと言っていた――もしかすると結構クールなのかもしれない。
それでいて隠れて練習試合を見に行くくらいだから、俗に言うツンデレ属性なのかな、と知りもしない彼女を脳内で描く。

大石だけでなく手塚にまでマネージャーに誘われてたようだから、しっかりした人だったのだろう。
生徒会に入ってるくらいだしね

教科書を見ていると、棚の中に二年の教科書がぽつんと一つ収められていた。

なんだろコレ。復習にでも使ってたのかな?

何気なく手に取って眼下に持ってこようとすると、教科書の中から一枚の封筒が落ちてき、
は机の上に落ちたソレを手に取ると、まじまじと見た。


真っ白い封筒、あて先も、自分の住所も書いてない。
紛れ込んだのかな?と思って中をのぞくと、一枚の紙が入って居るのが瞳に映る。


棚に並んでいる唯一学年の違う教科書、その中に挟まっていたあて先のない手紙。


見るか見ないか迷ったものの、少しでも情報が欲しいため、申し訳ないながらも見る事に決めた。
紙を取り出して広げると、日記と同じ少し角ばった文字が並んでいる。

「えっと…これを私じゃない誰かが読んでいるとき、私はもうこの世にいないかもしれません…え?」

我が目を疑って、申し訳なさそうな顔を一変、真剣な表情を浮かべると、食い入るように文章に視線を走らせる。


これを私じゃない誰かが読んでいるとき、私はもうこの世にいないかもしれません


とは言っても、死ぬような勇気もないし、この手紙は一生お蔵入りするのだろうけど、
誰にも言えないこの気持ちをどうにも出来ない私は、こう言う形で思いをつづる事しか出来ません

誰にも言えない思い…私は、好きになってはいけない人を好きになってしまいました
この世の何よりも、自分の命よりも尊い程愛しています。そして、それは一生報われる事はない

最初は、傍に居られるだけでいいと思っていました
遠くからでも彼を見ていられたら、姉と言う立場で彼の一番で居れるなら、それで構わない、と

だけど人とは欲深き生き物です
あの人を一秒事に更に好きになっていく私は、いつからか彼に愛されたいと願うようになっていました

その唇が触れたら、指先が触れたら

その思いが強くなるほど、私は自分が恨めしくて恐ろしくてたまらなくなりました
こんな私の気持ちを知ったら、きっと彼は驚きます、そして軽蔑するでしょう

私を家族だと思ってくれてる人と、違う形の好きを私は持ってるから

もうこの世界に居たくない。彼の傍に居たくない。居れば、もっと醜い自分を知ってしまう
神様、お願いです。本当に神様が居るのなら、この世界から連れ出して

狂おしい程のこの行き場のない思い
もし、この手紙が人の目に触れるときが来たなら、あの人だけには、知らせないで下さい

せめて彼の中ではどんな印象だったとしても、完璧だった姉としていたいから

好きになっていく自分が怖くて、私はいつからか彼と距離を取ることになってしまいました
冷たく突っぱねて、そのくせテニスをしているときのあの人の顔が大好きで、私の宝物でした

隠れて試合を見に行きました。いつも遠くから応援してました

私が願えるのは、彼の幸せ

もし、今私がこの世界にいないのなら
どんな場所にいたとしても、彼の幸せを一番に願っている事を、貴方の胸に留めておいてください

愛しいリョーマ
貴方が、誰よりも幸せになりますように



                                                越前


「な…」

は絶句したまま、読み終わった後なのにその手紙から目を離せずに居、
驚きと動揺で手が震え、手紙がカサカサと揺れて音をたてていた。


彼女はリョーマが好きだったと言うことなのだ。
弟としてではなく、一人の男の人として

そしてそんな自分が怖くて、彼女はこの世界を逃げ出したいと思っていたと言うことになるのだろう

一方は、姉と言う立場だったとしても、リョーマの傍に居たいと願っていた。
理論だてて考えるなら――そもそも、トリップと言う事自体理論外のことだけれど――入れ替わったって事だろうか

あちらの世界に行きたかった本当の越前、そしてこちらに来たかった

だったらは?この世界の切原は?

――かなり悩んでたみたいだよ


クラスで浮いていたと言っていた、家族にも言えずに、一人で抱え込んでいたのだと。
それが、彼女の逃げたい理由だとしたら――全てつじつまが合うような気がする。


――姉と言う立場で彼の一番で居れるなら、それで構わない、と


ぎゅっと心臓が縮んでなくなってしまうのではないかと思うと同時に、目元が熱くなるのを感じ、
は頬に一筋の涙を流すと、ぎゅっと手紙を握り締めた。

痛い程、その気持ちが分かる

理由は違うものの、それはも昨日思ったことだ。
姉と言う立場で一番になれて嬉しい自分と、一人の女性としてみて欲しい自分の心


は生憎リョーマの本当の姉ではないし、そのこともずっと隠し通すつもりだったから、
一人の女性としてみて欲しい、なんてはなから諦めようと思っていたけれど


彼女はどうだったのだろうか
リョーマが生まれた時から傍に居て、大人になっていく彼を見て、どんどん好きになっていって

気がついたら、諦められないほど好きになっていたんだとしたら


「…それは…」


ぽつりとは唇を震わせて呟くと、瞳を伏せた。




それは、なんて悲しい恋物語なのだろうか




ひたすら涙を流していると、コンコンとドアが叩かれ、返事をする間も涙を拭く間もないままドアが開かれる。
リョーマは頬を濡らして驚いた瞳をしているを見て、少し目を開いたものの、
彼女が握っている手紙を見て、「お風呂、沸いたから。先に入って」と言うと、何も触れることなくドアを閉めた。


バタンと閉まる扉。
その外でリョーマは両目を手の平で押さえると、かすかな声で呟いた。
「      、      」








一方は、唖然としてドアを見ていたものの、
リョーマが深く追求して来なかった事に安堵のため息を零すと、手紙を封筒に戻して教科書の間に挟めた。


元あった場所に戻すと、は家族写真を見る。


きっと今、母親達の元に彼女は居るのだろう
最初はきっと驚くと思うけれど、リョーマが居ない世界で、彼女は救われるのだろうか、追い詰められるのだろうか


彼女が本当の越前に対して出来る事


それは、リョーマをこれ以上好きにならない、と言う事だろう
自分の気持ちに蓋をしよう、大好きだったリョーマが現実になって、
こちらの世界に来てどんどん惹かれていこうとする自分に

姉として、は彼の傍にいよう、と最後に一筋の涙を流した。