「あー、疲れた…」
周りに聞こえない程度の声で呟いて、は頭痛を堪えるように片手で頭を支えた。
なんとなくクールで出来る人なんだろうなとは思っていたけど、ここまで凄い人だったなんて。
朝教室に行くと、「おはよう」と声をかけてくれる人は多かったけど、話しかけに来る人はおらず、
ボロを出さずにすんだものの、ホームルームのまでの間何だかつまらない気持ちで、教科書を眺めていた。
休み時間になってもそれは同じで、
どうやら本物の越前さんは、人と群れるのがあまり好きなほうではなかったらしい。
もっとも、それは向こうの世界に居た時のも同じような感じだったので、
取り立てて淋しいと思うこともなかったけれど、青春をやり直すチャンスを与えられた身としては少し物足りない。
そんな時、あの頃の自分はどうだっただろうか、とふと思った。
確か中学時代、自分と他人の間に溝を感じていて、彼らと自分は違う生物なのだろうと勝手に思い込んでいた。
淋しくて悔しいから彼らを見下す事で自分をかろうじて保っていたのだ。
自分の世界に居る事だけが、身を守る術だった。
漫画やアニメのことを考えているときだけが、本当に幸せだった。
だけどふと気がつくと、その溝は他人が作ったものではなくて、自分が作ったものだったのだと気がついて、
高校生活が始まった時、変わる時期だと思って、そんな自分とはさよならしようと思った。
それまで好きだった漫画の事や、アニメの事を捨てた時期もあったような気がする。結局足は洗えなかったけど。
みんなに合わせるために芸能人のこととかを勉強して、必死に話しをあわせて無理に笑って。
そんな時、事件は起こった。
人に合わせることに必死だっただけれど、
それまで友達だと思っていた子が言っていた自分の陰口が広まって、クラスから切り離されたんだ。
身に覚えのない事を吹き込まれたクラスの人は、そっちを信じてしまって
結局誤解を解く事は出来たけど、一度出来てしまった距離が卒業までの間縮まる事はなかった。
本当の意味で友達と呼べる人が居ないのかもしれないと気付いたのは、卒業してからの事だった。
クラスの子とは何となく連絡が取りづらく感じてて、他のクラスの友達も、
進路がバラバラになったこともあるのだろうけど、連絡を取ることがなくなって、孤独を噛み締めて
初めて青春に悔いを感じたのは、その時だったのかもしれない。
進学して、結局ある程度自分をさらけ出してみようかと思った。
だけどたまたま一緒だったクラスの男子達が本当に嫌なヤツで、
何故だか知れないけどからかわれて、爆発したストレスは病気と言う形で出て、学校に行けなくなった。
完璧な、人間恐怖症になった。
人と触れ合う事が怖くて怖くてたまらなくて、元々太っていたのもコンプレックスになって、
外を歩くときも、前を向いて歩けなくなってしまう始末で。
療養と言うことで家に居た間、何度悲しみに暮れたか分からない。自分をののしったか分からない。
そんな時自分を救ってくれたのは、家族と、僅かな友達と、漫画とアニメだった。
特にテニプリは、その要だったと思って良い。
「Gather」やリョーマの歌に、どれだけ救われたことだろう。
彼らに会いたいとずっと願った。毎日毎日願った。
彼らの青春を、この目で見たいと――そして願いはかなって、この世界にこれたんだ。
「越前」
「…」
「越前!」
「はぃぃっ!」
完全に思考が飛んでいたは、びくぅっと肩を揺らすと後ろを振り返った――そうか、私今越前なんだっけ
後ろに立っていたのは先生で、先生は手に持っていたノートを差し出す。
「お前、確かテニス部レギュラーと知り合いだったよな?」
「え、まぁ…」
一応リョーマの姉らしいですし、とは言える訳もなく、がノートを受け取ると、不二周助と言う名前が入った。
「授業のノート取りの参考で借りてたんだがな、次の時間アイツがこのノートいる事すっかり忘れてたんだよ。
俺は今から授業資料取りに準備室まで行かないといけんから、お前の方から返しておいてくれ」
「はぁ…」
そう言うと先生はポケットの中から飴玉を取り出して、ノートの上に乗せる。さしずめお駄賃と言った所か。
どうもありがとうございます、と言うと先生はにかりと笑って大股で去って行った。
次の授業まであと五分。
3−6に寄るのなら、急がなくちゃならない。
パタパタと駆け足で不二たちの教室に行く間、不二のことは何て呼んでいたのだろうかと思う。
確か日記には一度菊丸の話しが出てきていて、「菊丸君」と書いていた事から、やはり「不二君」が妥当だろう。
不二と菊丸って一緒に居るのかな?何となくわくわくしながら教室に入ると、
どうやら菊丸は教室を離れているらしく、お目当ての人物は窓側の席でぼうと空を眺めていた。
ちくしょう、顔が言いやつって言うのはどうして何でもかんでも絵になるのだろうか
「不二君」
机に近づいて名前を呼ぶと、顔をこちらに向けた彼は、とても驚いた表情を見せた。
「…どうしたの?」
そう言うと、彼はふわりと笑って「いつもは周助君って呼ぶから、驚いちゃって」と言う。
しまった!そうだったのか!と思うと、
「ちょっと今日は気分を変えてみようと思って。驚いた?周助君」と微笑み返してみた。
彼は「うん」と言うと、差し出されたノートを見て「ああ」と受け取る。
「先生に頼まれちゃって」と言うと、彼は申し訳なさそうに眉尻を下げて笑った。
「わざわざごめん。ありがとう」
「どういたしまして」
時計を見ると、もう授業が始まるまで三分を切っていて、は「ぎゃ」と声をあげると、大慌てで片手をあげる。
「それじゃ。部活頑張ってね」
そう言って去っていくを見る不二の目が、開眼していた事も知らずに。
【優しい人 前編】
長い授業も終わって、ようやく帰る時間になった。
一度受けてる授業といえど、ブランクがあるせいか思い出すのに時間がかかり、気が抜けない。
しかもおそらく越前は勉強も出来ていただろうから、
なるべく真剣に聞いておくことに越した事はないだろうと思って、
おちおち寝ることも出来ず、必死に教科書にかじりついていたのだ。
おかげで随分神経をすり減らした――こんなんでコレから先乗り越えていけるのだろうか
鞄を取り出して教科書をなおしていると、クラスの女子がおどおどと回りを見渡している事に気付く。
今日見た限りでは、と違う意味で浮いている女の子で、どうやらクラスになじめていないらしい。
まるで昔の自分を見ているようだったので、彼女の事は殊更深く印象付けられていた。
そんな彼女は勇気を出すように胸の前でぎゅっと拳を握ると、近くにいた子に声をかけている。
「あの、今日私家の大事な用事があって、掃除当番代わってもらえませんか?」
しかし誰が好き好んで当番を代わるわけもなく、
言われたクラスメイトはあからさまに嫌な顔をすると「はぁ?」と眉根を寄せた。
「何であたしが代わらなきゃいけないのよ。さっさと終わらして帰ればいいじゃん」
とは言っても、掃除当番で残っているのは男子で、彼らは箒でチャンバラゴッコをして遊んでいる。
とてもとても早く終わるとは思いがたい
――おそらくそれはクラスメイトも分かっているのだろうけど、知らない態を通すつもりらしい。
「あの、その、すぐ帰らなくちゃいけなくて…だから…」
「あたしがアンタの事情に巻き込まれなきゃいけない意味がマジ分かんないんだけど。他の人に頼んで」
そう言うと、取りつく島もなく、クラスメイトは去っていく。
落ち込んだ表情を見せた彼女は、それでも大事な用事なのだろう、
辺りを見渡すが、皆関わりたくないと言う態度で足早に帰っていくのを悲しそうな瞳で見ていた。
は立ち上がると、諦めて箒を取りに掃除用具に手を伸ばした彼女の後姿に、声をかける。
「私、代わろうか?」
その子は振り返っての姿を見ると、瞳を零れん位に目を見開いて驚いて、わたわたと両手を振った。
「い、いいです。大丈夫です」
「でも、大事な用事なんでしょう?」
言葉に詰まった彼女は、二三秒黙り込むと、小さく頷く――「はい」
は彼女の後ろに手を伸ばして箒を取ると、「だったら早く帰りなよ」と微笑んだ。
この様子を見るからにして、
越前さんはこう言うことに一切関わろうとしない人なんだろうなと言う事は予想できる。
賢いやり方は、やはりここは無視して帰るべきなんだろうけど、それははばかられた。
自分のために他人を犠牲に出来るほど、まだ落ちぶれたつもりはない。
人として大事な部分は、たとえどんな状況になろうとも、忘れちゃいけないと思うから。
「大丈夫!私帰宅部だし、帰っても暇なの。気にしないで」
ダメ押しのようにそう言うと、彼女は安堵した表情で微笑んだ。
「ごめんなさい。ありがとう」
「いいっていいって、気にしないでって言ったじゃん。それより早く帰りなよ」
ぺこりと頭を下げた彼女は、踵を返すと、鞄を取って教室から駆け出て行った。
その様子を柔らかい表情で目で追っていたは、ドアに不二の姿があるのに気付くと、ぎょっと目を開く。
しまった、まずい所を見られてしまった。
しかし微笑んでる不二は何を考えているのかがさっぱり分からず、
彼は教室の中に足を踏み入れると、のところまで歩み寄って来る。
「優しいね、越前」
へぇ、不二ってさり気なく名前で呼んでそうなのに、苗字呼びなんだ、と変なところで驚いてしまう。
「そんな事ないよ、暇なのは本当だから」と言うと、不二は「そっか」と言って、話題を切り出した。
「さっき大石に会ってね。
部活終わった後資料整理を手伝って欲しいって伝えて欲しいって言われたんだけど、第二社会資料室」
昼休み偵察に行った限りでは、第二社会資料室とは最上階の端の方にある、人気のない場所だ。
大石ならたとえ少しボロが出たとしても何とかごまかせる気がするし、なんて言ったってあの声を生で聞きたい。
二つ返事でOKすると、不二は微笑んだ。
「じゃぁ伝えておくね。僕も少し用があって資料室に行かなくちゃいけないから、よかったら一緒に行かない?」
「もちろん」
「部活が終わったら来るから、待ってて」
「うん、頑張ってね」
片手をあげて不二が去っていき、は未だにふざけている男子達を横目に掃除を始める。
中学校三年生なんて、まだまだ子どもだよね――レギュラー陣が大人すぎるんだよ、うん。
□
まず宿題をやっつけてしまおう、と意気込んだせいか、意外と早く終わってしまい、手持ち無沙汰になったは、
窓を開けて外を見ると、テニス部が練習しているのを見ていた。
あ、リョーマだ
レギュラー陣の中では背が低いので、遠目から見ても目立つ。
菊丸相手に試合形式の練習をしているようで、ドライブBを華麗に決めていた。
うん、我が弟ながらカッコイイじゃん
あえて我が弟、とつけたのはいわずもがな予防線。
これ以上、リョーマを好きにならないように、自慢の弟として誇れるように。
菊丸ビームを見たり、隣のコートで練習しているレギュラー陣を見ていたりすると、
あっと言う間に時が過ぎて、
コートの中からこちらにまで聞こえる大きな声で「お疲れ様でした―!」と言っているのが聞こえ、解散していく。
窓を閉めると、はノートに視線を再び落とした。
不二が来るまで後ちょっと、それまで復習でもしていよう。
案外早く不二は来て、他愛ない会話をしながら、社会資料室まで来た。
人気のない校舎は一人だととても怖いけど、不二がいるので何となく安心できる。
夢小説では、不二が魔王って言うのは定番だもんね
下級霊とか下僕にしてそう――と、はにこにこと微笑みながら思っていると、
不二はの後について資料室に入り、後ろでにドアを閉めた。
「大石君、まだ来てないね」
「大石なら、もう帰ったよ」
「え?」
振り返ると、笑みを浮かべてない、真剣な表情の不二と目が合う。
その目があまりにも真っ直ぐ射抜いてくるのが怖くて一歩後退さると、は小さな声で尋ねた。
「どう言う…事?」
答えるつもりはないらしい。
しばらくの無言が続いた後、「ねえ」と不二が口を開き、彼は問うた。
「君、誰?」
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