「君、誰?」


二人きりの社会資料室に響く、不二の静かな問い。
ドキドキとときめきとは違う意味で高鳴る心臓の音さえ、無言の部屋に響き渡りそうで、
は思わず胸を押さえると、一歩後退さった

「何言ってるの?」
「君が、彼女のはずがない。本物の越前は何処に行ったの?」

これは疑問ではない、確信を抱いている言葉だ。
強い口調には眉根を寄せると、静かにため息をついて腕を下ろした。


「多分、私の世界」







【優しい人 後編】






「つまり、君の精神と、彼女の精神が入れ替わったって事?」
「そう言う事だと思う。私もまだ、確証を持った訳じゃないから何とも言えないけど」

不二は窓辺の壁に背を預けて立ち、は机に乗せてある資料を端に避けると、椅子に腰掛けて頬杖をつく。
先ほどの不二の剣幕から言って、何かしら言われるとおびえていたものの、
不二は思いつめた様子で床に視線を落として黙り込むばかりだ。

その空気に耐え切れなくて、は不二の方を向くと、「ねぇ」と言って尋ねた。


「どうして私が越前さんじゃないって分かったの?」


思いつく辺りとしては「周助君」と呼んでいたことに対して「不二君」と呼んだこと辺りだ。
(放課後掃除を変わっていたのを見られていた時はすでに、彼はを社会資料室に呼び出す手はずだったから)

だけど、たったそれだけでが越前と違うという事など気付くだろうか?


嫌、普通は思わないだろう。
「ちょっと気分を変えてみようと思って」と言うのは、こちらからしてみれば苦しいいい訳だが、
日常生活の中でぽんと言われて、疑われるほど危ういいい訳ではない。


つまり、彼はそれ以前にが彼女じゃない事に気付き、かまをかけていた、と言う事になるのだろうか。


とは言え、推測でしかないので、は難しい表情をしている不二に、追って尋ねた。
「彼女が“周助君”って呼んでたのに、私が“不二君”って呼んだから?」

オレンジ色の夕日も大分地平線に近づいており、窓から差し込む暖かい色が、不二のシルエットを映えさせる。
そんな中不二はゆっくりと首を横に振ると、「彼女は呼ばないんだよ」とポツリ呟いた。


「え?“周助君”って?」


やはり、かまをかけられたのにまんまとはまってしまった訳である。
渋い顔をしたとは対照的に、不二は「ううん」と言って瞳を伏せると、口元に自嘲の笑みを浮かべた。


「僕のことを、呼ばないんだ」

「…え?」


不二の言っている事を理解するのには、数秒を要し、が瞬きを繰り返していると、不二は窓の外に首を巡らせる。
「彼女が僕に話しかける事はないんだよ。仮に用事があったとしても、英二に頼むか、クラスの子に頼んでる。
――僕とは絶対に、口をきかないんだ」


つまり、最初にが声をかけたときに驚いた顔をしたのは、
いつも「周助君」と呼んでいることに対して「不二君」と呼んだなんて言う些細なものではなく、
“彼”に話しかけたから、と言う事だったのか。


何で越前さんは、と問おうとしたの考えを先読みしたのだろう、
不二は窓からに視線を移すと、先手を取って口を開いた。

「僕が彼女の、弱みを知ってるから」

「弱み?」


「うん」



かすれた声で、かろうじて聞こえるほどの相槌を打つ不二。
その顔は、いつもの余裕じみた柔らかい微笑みではなく、どこか影を帯びた、思いつめたような表情で、
は“完璧な彼女の弱み”と言う事を考えると、一つしか思いつかない答えに、はっと目を開いた。


「もしかして、リョーマが好きって事…知ってたの?」

「…うん」


「どうやって知ったの?」

彼女は必死に隠していたのは、あの手紙を見た後では十分に推測できる。
不二は一瞬視線をさまよわせたものの、胸のうちを語るように、慎重に口を開いた、

「僕は彼女をよく見てたから」


つまり

「不二君は、越前さんが…好き、だったの?」


重い沈黙は肯定だった。
はぎゅっと心臓を掴まれたような思いに、泣きそうな表情をして、唇を噛み締める。

「だったら、どうしてそのままにして置いたの?もしかしたら、不二君の事ちゃんと考えて――」
「最初はそう思ってたけど、現に彼女は僕を避けたから。彼女がどれ程の思いで越前が好きだって事、知ってたしね」


報われない弟への恋。
それは悲しいほど彼女の心を傷つけたけど、それだけじゃ留まらず、

彼女を愛した人すらも、傷つけて、こんな辛い顔させて。


ごめんなさい、と謝れればどれだけいい事だろう。
は、不二の心を傷つけただけでなく、存在が入れ替わった事で、彼女すらこの世界から消してしまったのだ。

――不二の静かな怒りは、私のせいだ



頬を生暖かい涙が伝って、それを見た不二は少し目を見開くと、苦笑する。
「なんで君が泣くんだい?」

思わずごめんなさい、と口にしようと思ったものの、かろうじて押し留めた。
ダメだそんな事を言ったら、逆に不二の気持ちを傷つける結果になる。


は涙を拭うと、出来る限り自然な笑顔を浮かべて微笑んだ。


「私は越前さんじゃないけれど、今は彼女の代わりだから――好きになってくれて、ありがとうございます」


不二が驚いた表情を浮かべて、そして眉尻を下げて笑う。
「驚いたな。そうくるとは思わなかった――僕はてっきり、謝られるかと思ってたんだけど」

「そんな事を言ったら、不二君の想いを踏みにじる事になります。
今は私に出来る事はありません。彼女と入れ替わる事も、何も出来ないけど…でも、不二君の想いを、大切にしたいです」

それに、とは微笑すると「ここだけの話しなんですけどね」と両手を膝に置いて、小首を傾げた。

「多分、私達はずっとこの世界にいる訳じゃないと思うんです。この世界は、私達の世界じゃないから。
だから、越前さんはきっと帰ってきます。

その間私達がこの世界で何かを学ぶように、きっと彼女も何かを学んで帰って来ると思うから。

それまで、彼女を好きな気持ちは、大事に取っておいてあげてください。
彼女なりの答えを、出してくれるはずです」


絶対に、最後はそう力強く言うと、不二は不意を突かれたような顔をして、「うん」と目を細めて笑った。

しかしはたと目を瞬かせると、「私達?」と首を傾げる。

「もしかして、君の他にこっちに来てる人が居るの?」
「はい。私の妹と一緒に来たんです。ちなみに今は切原赤也の双子の妹として、立海大に通ってます」


その妹さんも、クラスで色々あって悩んでたみたいで…と言うと、不二は「その子も逃げたかったんだ」と複雑な表情をする。
「そう言うことだと思います」とも神妙な顔で頷いて、言葉を繋げた。

「恐らく、こっちの世界に来たかった私達と、別世界に行きたかった彼女達の思いが、入れ替わった原因だと思うんですけど」

の言葉に、不二は「君はどうしてこっちの世界に来たかったの?」
と尋ねて来る――最初とは違う、棘のない雰囲気で。
その柔らかい雰囲気にほだやされて、は頬を緩めると、少し下を向いた。


「私、中学も高校も、これと言って勉強を頑張った訳でも、部活に精を出した訳でも、恋を楽しんだ訳でもなくて。
おまけにコレと言って秀でたものもないのに、よく敵視されやすいみたいで、人間関係もあまりうなく作れなかったので。

それでも頑張って進学したんだけど、男の子達にからかいの対象にされちゃって――結局、学校も行けなくなったんです。

病院に通いながら、家に居る時間が長くなって、
人と接するのが怖い自分と、そんな自分が情けない自分が心の中で言いあって尚更病気が悪化しちゃって。

そんな時、リョーマ達に励まされたんです」


二次元だけど、彼らは確かにそこに居て。
漫画や、アニメや、ラジオやミュージカル、それに歌でどれだけ励まされたことか。


「こっちの世界では、皆様が出て来る本があるんですよ。
私にはなかった、青春時代を過ごす貴方達がとても眩しかったの。

だからいつも願ってた――例え遠くからでもいいから、貴方達が青春してるところが見たいって。応援できたらって。

まさか、本当にこっちの世界に来るなんて考えてもみなかったけど。
でも、それを願う事が、私の唯一の救いだったんです」


結局、越前さんを引き換えにこっちに来てしまったと言う事に、また心が重たくなる。
だけど不二は「そうだったんだ」と至極優しい笑みを浮かべた。

「誤解させないように言っておくけど、別に君の事を恨んだりはしてないよ。
越前がこの世界から逃げ出したいって思う程悩んでた事に気付かなかった自分が少し腹立たしいけど…。

彼女は、自分で去ることを決めたみたいだし」


その言葉で、少し救われた気がする。
ほっと胸を撫で下ろしたを見て、不二は「そう言えば」と改まったように尋ねて来た。

「高校卒業して進学したって事は、随分年上だよね。いくつ?」
「今年で19になりました。あ、だからって別に敬語で喋ってくれなくていいよ」

「むしろ、君が敬語使ってる位だしね」


は不二の言葉に、あはは、と乾いた笑みを浮かべる。
何と言うか、散々読み明かした夢小説では不二魔王説の印象が強すぎるし、第一美形過ぎて引け目を感じるというか。

ぐるぐると考え込んでいたとはよそに、不二は窓の外が暗くなってきたのを横目で見ると、
「そろそろ帰ろうか」と壁から背中を離した。


「送っていくよ」
「あ、いや、大丈夫ですよ。行きがけにちゃんと道覚えてきたつもりなんで…多分、大丈夫です」


段々自信がなくなってきてごにょごにょと言いよどむと、
「僕が遅くまで引きとめたんだし、当然だよ」と不二はドアへ向かって歩き出す。

机の上に置いて居た鞄を持ってその背を追うと、夕闇が迫っている校舎とはかなり不気味だった。

きょろきょろと挙動不審に歩くを見て、不二はくすくすと笑うと、「怖いの苦手?」と尋ねてくる。
「はい。でもそのくせ怖いもの見たさで心霊特集とか見ちゃうんですよね。不二君は平気そう」

「うん。僕は結構好きなほうかな。人が怖がるのを見たりするのも楽しいし」
「絶対驚かさないでくださいね!」

「そんな期待をされると「全然期待してませんから!」」


不二は必死で否定するを横目で見て、笑うと「確かに別人だね」と一人ごちて、
その言葉が聞こえたが「え?」と言うと、彼は影を落として微笑んだ。


「避けられてた方としては、なんか、こうやって居るのが嘘みたいだけど。
顔は一緒でも全然違うタイプだし、何だか別人って感じ」

まぁかなりクールな人っぽいですもんね、と言うと、ドライとも言うよねとさりげなくつけたしが入る。

「そう言えば、越前さんは不二君の事一回も呼んだ事ないんですか?」
「あー。そうだね、最初は不二君って呼んでたと思うよ。多分彼女、越前以外を名前で呼ぼうとは思わないはずだから」


――彼女がどれ程の思いで越前が好きだって事、知ってたしね


どんな思いで、不二は越前兄弟を見ていたんだろう。
私ならきっと耐えられない、とは表情を曇らせる。

そうこうしているうちに下駄箱まで辿り着いて、一旦靴を取りに別れると、昇降口で再び落ち合った。
他人に見られたら間違いなく誤解されるである現状に苦笑を零すと、「どうしたの?」と聞かれて「いいえ」と首を横に振る。


もう生徒はほとんど残っていないのであろう校庭を二人で歩いていたものの、
沈黙に耐えかねて、は不二へ顔をめぐらせた。



「だったら私は、周助君って呼びますね。
私と越前さんが別人だと言う事を、ちゃんと分かってて欲しいので」

「うん。じゃぁ僕はって呼ばせて貰おうかな。
そうだ、越前は敬語なんて絶対使わないから、素っ気無い喋り方をした方がいいよ」

「ど、努力します…」


言ってる傍から敬語になって――二人が微妙に微笑みあうと、
は不意に何かを思い出したように視線を宙に上げ、口を開いた。

「さっき周助君、私に優しいねって言ってくれたけど、私、周助君の方が優しいと思うよ」

「どうして?」と問われて、は地平線に沈みかけている太陽に目を細める。


「私は、好きな人の一番の幸せを望めるほど強くないから。
好きになった人には、やっぱり好きになってほしいと思うし…わがままになっちゃう、きっと」


だから

だから私は、リョーマを好きにならない。ううん、なれないんだ


思案気な表情をしているを見て、
不二は何かに気付いたような表情をしたものの、「強くなんてない、かな」と苦笑を零した。

「優しいんじゃない、臆病なだけだよ」

「そうかなぁ」と言おうとしたは、
門へと向かって歩いている見慣れてきた後姿を見つけると、「リョーマ?」と小首を傾げた。


思ったよりその声が大きかったのか、リョーマが振り向き、瞳にと不二の姿を映すと、立ち止まる。
姉。こんな時間まで何やってたの?」


う、とが言葉に詰まると、リョーマは不二を見上げて「不二先輩も一緒みたいだし」と付け加え、
はますます居心地が悪くなったように、体をそわそわと浮かせる。

まさか君のお姉さんと入れ替わってます、なんて話しをしてたなんて言えるはずもなく。

がごにょごにょと言いよどんでいると、不二がやんわりとした言葉で間に入ってくれた。
「僕が社会資料室の整理を頼まれてて、彼女が手伝ってくれてたんだ。ごめんね、借りてて」


「別にいいッスけど」とリョーマが言うと、不二は「じゃぁ越前が居るから、僕は真っ直ぐ帰ることにするよ」と先を歩き出す。
去り際に「ありがとう」と言ってくれたのは、整理を手伝ったという名目の上のお礼なのだろうか。

もしかしたら力強い味方を手に入れたのかもしれない、とは思うと、片手を挙げて不二の背中に叫んだ。


「また明日ね!周助君!」


首だけ巡らせて手を振っていく不二の背中を見ていたリョーマが、に視線を移す。
、不二先輩の事“不二君”って呼んでなかったっけ?」


これが数時間前だったら慌てていい訳していただろうが、不二との会話は、どことなくの気持ちを吹っ切れさせて、
はリョーマを見て、今まで見せた事のない安心しきった笑みを浮かべた。


「“今”の私は周助君って呼ぶの!」


しかしやっぱり何となく失言だった気がして、慌てて付け加える。
「あ、昔は不二君って呼んでたんだけど、何か今日の整理で仲良くなれたって感じで」


聞いた割りに、リョーマはあまり興味なさそうに「ふーん」と言って歩き出したので、はその後姿を追いかけた。

「ちょ、待ってよリョーマ!」
「早くしないと、夕飯冷めちゃうからね」


不安で不安で仕方なかったこちらの生活に、少し日が差したような気がした。
平面状だったこの世界が、不二から聞いた言葉で丸みを帯びたからかもしれない。


こっちの世界も、ただ幸せって訳じゃないんだよね


それぞれが生きてて、笑ったり泣いたり、怒ったり、また笑ったりしながら生活してるから、自分も頑張らなくっちゃ。



でもとりあえず…不二にバレた事、には黙っとこう。