お昼休みのチャイムが鳴って教室がざわめく中、は思い切り背伸びをすると、凝った背筋をほぐした。


今日の授業も、一度習っているはずの身だと言えど、やはり一筋縄ではいかないものばかりだった。
お陰で家に居る時、向こうに居た時よりも随分長い間机に向かって教科書や参考書と格闘しているような気がする。

もしかして戻ったとき随分頭良くなってたりして…


淡い期待を抱きつつ、机の横にかけてある鞄からお弁当を取り出そうとする際に瞳に映った右手を、
は不意に切ない表情で見つめた――昨日この手で、リョーマの手を握ってたんだ。


日吉宅からの帰り道、前を歩く小さな背中。
背は自分の方が高いのに、握られたリョーマの手の平は大きくて、骨ばってて、暖かくて。

ゆっくりと歩いてくれる歩調に甘えて、は結局、家に帰る直前まで泣き止む事が出来なかった。

それでも家に着いたときは何とか落ち着きを取り戻していて、迎えに来てくれたお礼を言おうと思ったのだが、
家に入った途端、玄関にスライディングするように現れた南次郎のハイテンションな出迎えに圧倒されてる間に、
リョーマはさっさと自分の部屋に引き返してしまってる始末。


朝もリョーマは朝練だと言う事で、より随分前に出て行ってしまってて「おはよう」と声をかける事すら出来なかった。


弟とは言えクラスまで押しかける度胸がにあるはずもなく、
そんなこんなでだらだらとこの時間まで先延ばしにしてしまい。

今更家に帰って「昨日ありがとう」と言うのもなんだか物凄く不自然な気がする、と――タイミングを完璧逃してしまった。


でもリョーマは私を迎えに来てくれた訳ではなく、越前さんを迎えに来たんだよね、とは瞳を揺らす。
そう思うとどこまでも卑屈になってきて、南次郎の出迎えも、朝用意してある朝ごはんも、
全て嘘のような気がして、はいけないと思うと、考えを振り払うように頭を横に振った。

姉と言う立場を望んできたのは自身だ。
リョーマに愛される事はなくても、傍に居る事を願った事を後悔したら、それこそこちらの世界に来た意味を失ってしまう。


でも――


少し釣りあがった猫のような目、意地悪な言葉、よりも少し小さな背、真っ直ぐと上を見上げるその強さ
現実の世界にいるときは届くはずもなかったこの手は、少し伸ばせばリョーマに触れられる。


手に入れないはずのものを思う時、どうして人は、手に入れる事を望むのだろう


下手したらどんどんマイナス思考に走っていく思考に、強制的にピリオドを打って、
は気を取り直すように弁当箱を持つと、きょろきょろと教室を見回した。


(花子ちゃん、居ないなぁ…)


ここ二日何かと話していた事だし、せっかくだからお昼を誘おうと思ったのに、見当たらないその姿。
しょうがない、せめて場所でも変えるか、とは椅子を引いて立ち上がった。





【私と言う存在】





お天と様に当たったら、この湿っぽい気分も少しは乾くかな、とは屋上への階段を上っていた。
今日は煮物をいれたんですよ、と言う倫子さんの柔らかな笑顔を思い出す――早くお弁当が食べたいよ!

ドアを開けようとした時、ドア越しに小さな声が聞こえて、は眉根を寄せると、ドアに耳を寄せた。


「貴方、越前さんとちょっと仲良くなったからって、調子に乗らないでよね!」
「私は、そんなつもりじゃ――」


は?とは耳を疑った。
どうやら口論になっている原因はらしい。

眉間に皺を寄せると、はもっと良く聞こえるように耳を澄ます。
どうやら複数の女生徒が一人の女の子に詰め寄っているようで、
よくよく聞いているうちに、は必死に言葉を返してる女の子の声に聞き覚えがある事に気がついた。



――せめてものお礼にと思って



まさか、とは脳裏に花子の姿を浮かべる。
慌てて屋上に入ろうとした時、一際大きく聞こえて来た言葉に、はフライパンで頭を殴られたように思えた。

「どうせ越前君と仲良くなりたくて、それで越前さんに近づいたんでしょ!」


何よ、それ――ぎゅっと拳を握り締めたは、唇を噛み締めると、瞳を潤ませた。
そんな言い方ってない。





もしかしたら、越前さんは気付いてたんじゃないだろうか。
自分に近づいて来る人達は、彼女を見てるわけではなく、リョーマの姉としてみている事を。

そして嫌でも思い知らされた事だろう――自分とは違って、彼女達は、リョーマの恋人になれる“資格”がある事を

一匹狼を気取っていたのは、クールでドライな部分ももちろんあっただろうけど、

周りがもし自分を見てくれなかったら、自分では気付かないふりをしても、それはどんなに悲しくて、悔しいだろうか
そして彼女のよりどころが、リョーマ一人となったのなら、彼女がリョーマを好きだと言う気持ちに拍車がかかるのも頷ける



「違います!」
はっきりと聞こえてきた花子の声に、はびくりと肩を揺らした。


引っ込み思案なタイプの彼女からは想像し得ない凛とした声に、は泣き顔だった事も忘れて、頬を緩ませる。


そうだよ、確かにそんな人は一杯居るかもしれない。でもね、そんな人ばかりじゃないんだよ越前さん
周りを敵視するあまり気付かなかったかも知れないけれど、貴方自身をちゃんと見てくれてた人は居たんだよ。

――僕は彼女をよく見てたから

不二の言葉を思い出す。
きっと彼女は、自分を見てくれる人に慣れないまま、真っ直ぐな気持ちをぶつけられた事が怖かったに違いない。



周りにおびえていた、現実世界での自分が脳裏を過ぎった。
認められないから虚勢を張って、認めたくないから人から逃げるしか方法を知らなかった小さな自分。


そんなにも、ちゃんと手を差し伸べてくれた人は確かに居た。

ちゃん”

数少ない友達の笑顔が浮かび上がってくる。
ほんとうに片手で数えれる位しかいなかったけど、自分を隠さずに笑いあえた大切な友達。



ねえ、越前さん
一人きりの世界で安心できても、笑いあう事は出来ないよ



屋上へのドアを開けると、驚いた顔のクラスメイトと花子。
は花子の胸倉を掴んでいた女子の腕を握って離させると、花子とクラスメイトの間に割り込んだ。

花子を庇うように背中を向けてクラスメイトと対峙したの姿に、少なからず動揺が走ったようで、
クラスメイトはお互いの顔を見合わせると、取り繕うように口火を切る。

「越前さんは利用されてるだけよ、その子、越前君に近づくのが目的で――」
「だったら何。何でそれが貴方達に関係あるの?」

予想もしえなかった反論の言葉に、女子は「え」と言って躊躇する。


「もし仮に花子ちゃんが貴方達の言うような事が目当てで私に近づいて来たのだとしたら、
それは単に私の見る目がなかったって事だよ、貴方達には関係ない。

でも私は、花子ちゃんはそんな子じゃないって自分の見る目を信じてるし、友達になりたいとも思ってる」

「私達は越前さんの事を思って――」
「お呼びじゃないのよ」


きっぱりと言い切ったの言葉に、女子達は愕然と目を開いて、口々に囁きあう――越前さんってこんな人だったっけ?
はその言葉にかっと血が頭に上るのを感じると、叫んだ。

「あんた達が私の何を知ってるっていうのよ!」


びくり、と少女達が体を浮かす。


「越前リョーマの姉だと思って接してるのは貴方達の方でしょ!
そんな押し付けがましい親切を受け取ったって全然嬉しくないわよ」





会った事もない越前さん。
誰にも言えない秘密を抱えて、必死に生きてきた越前さんの辛さは、私にも、彼女達にも分かるはずはない。
でも私は今、そんな越前さんの代わりなんだ

「兄弟でも、リョーマはリョーマ。私は私。私はリョーマでも越前さんでもない」



私達がここに来た理由、彼女達が向こうの世界に行った理由は絶対にあるんだ。
今まで過ごしてきた時間は越前さんのものかもしれないけど、今から過ごす時間は私のものだから。

例え、リョーマが私と言う存在を認識してくれなくても――私はリョーマを知ってる。

会う事で忘れかけていた、会いたくて会いたくてたまらなかったあの頃の自分。願う事だけが、一日の救いだった。

今近くにリョーマが居る。それだけで十分だよ。手が触れる位置に居るだけで、私は幸せだから。
多くを望みすぎちゃいけない。傍に居れるだけで、私は救われてる。


ありがとう、神様
私をここに連れてきてくれて、リョーマにあわせてくれて、本当にありがとう

私の存在理由はココにある








「リョーマの点数を上げたいんだったら、リョーマの所にいきなよ。
私相手に点数稼ぎしたって、私はリョーマに口利いてやったりしないから」

「行こうよ」と誰かが言って、女の子達が屋上を出て行く。
パタパタと足跡が去って行って、と花子は同時に大きなため息をつくと、その場にしゃがみこんだ。


「ごめんね、花子ちゃん。嫌な思いさせちゃって」
「いえ。越前さんがああ言ってくれて、私嬉しかったです。私の方こそ、ごめんなさい」

振り返ると、花子は床に視線を落として言葉を濁らせる。

「その、調子に乗ってないって言ったの嘘なんです…私、あんなふうに話せる人いなかったから、嬉しくて…」

ごめんなさい、と言う彼女の顔は本当に申し訳なさそうで、は「私もだよ」と笑った。
「私も、嬉しかった。花子ちゃんと話すようになったここ数日、とっても楽しかったんだよ」


だから、お相子様だねと言うと、花子は恥ずかしそうに微笑む。
このままだと永遠に謝りあわなくちゃいけない気がして、
は彼女が読んでいたと思われる漫画に目をやると「あ」と指差した。

「あの漫画、花子ちゃんの?」
「はい。今日発売で朝買ってきたので、静かな所で読もうと思ったんですけど…」


そこに、あの女の子たちが現れた、と言う訳か。


「越前さん、漫画好きなんですか?」
「実はね。とは言っても、こっちに来てから読んでないんだけど」

意外そうな顔をした花子は、はっと目を開くと、「ごめんなさい」と頭を下げる。
気にしないでとが言うと、花子は苦笑を零した。



こっちと言う解釈は、花子とで違う。
花子はアメリカから日本に来たと言う意味で取ったのだが、は現実世界からこっちに来てたと言う意味合いだ。

なかなか自分でも度胸がついたと思う。


部屋を探索したとき、漫画が一冊もないのには正直かなり落ち込んだ。
なんで一緒にトリップしてくれなかったんだと涙ながらに訴えたいほどに――ああ!私の愛しの漫画たちよ!


こっちの世界の漫画にも興味があるけど、バタバタしていてそれどころではなかったし…
夢小説とかでは、現実世界の漫画とかがこっちにあったりするんだよね、と思ったはさりげなく尋ねた。


「花子ちゃんはどんな漫画が好きなの?」
「そうですね。少年漫画も少女漫画も好きですよ。あ、でも今ハマってるのはアニメで、ガンダムSEEDですかね」

メチャメチャ聞き覚えのある単語に、は思わずテンションがあがってしまい、
勢いあまって花子の両手を握ると、キラキラと瞳を輝かせる。



「SEED!?それってあれ?
コーディネーターのキラ君が主人公で、赤服の四人がもう超カッコイイやつ!?」

「はい、そうです。越前さんも好きなんですか?」


こっちにもあるのかSEED!は内心小躍りしながら、うんうんと何度も頷く。
「私大好きなの!ちなみにイザークとニコルを愛してるんだけど、花子ちゃんは?」

「私はやっぱり…アスランとキラ…かな」
「あの物語はキャラクターも魅力的だけど、戦争について考えさせられるというか奥が深いというか「姉」」


突然後ろから割って入ったリョーマの声に、反射的にはびくぅっと肩を揺らすと、おそるおそる背後を振り返った。
何時の間に屋上に入って来たのだろうか、リョーマがいつも通りの無愛想な顔で立っている。

うわー、話しバリバリ聞かれちゃったじゃんよ

は花子の手を離すと、ぱっと立ち上がってリョーマに向き直り、白々しく尋ねた。
「こんな所で会うなんて偶然だねリョーマ!何してたの?」
「昼寝してたら、姉の大声で目が覚めた」


――あんた達が私の何を知ってるっていうのよ!


ああ、あれね。そりゃまぁ随分な修羅場をお見せしたようで…が思わず視線を泳がせると、
そんな彼女を見ていたリョーマは瞳を細めて、口元を僅かに緩ませた。


「やるじゃん」
「え?」


リョーマの言葉に、は居心地の悪さを感じていた事も忘れて、ぽかんと口を開く。


「さっきの姉、かっこよかった。俺、結構気に入ってるよ“今”の姉」

――“今”の私は周助君って呼ぶの!

リョーマの言葉が、暗におとといのの言葉を指している事は分かった。
でもそんな事よりも、リョーマの笑顔が目に焼きついて離れなくて、
呆然とリョーマを見ているのおデコにリョーマは手を近づけると、人差し指で弾いた。

「痛っ!」
「間抜け面」

ちくしょう、可愛い所を見せたと思うとすぐこれだぜ、とは踵を返して歩き出したリョーマの後ろ姿にいーっと舌を出す。
しかし、ひらりと手を振ったリョーマの背中に思わず頬を緩めると、片手を挙げて叫んだ。

「リョーマ、昨日はありがとう!」
「別に。たいした事じゃないから」


そう言ったリョーマが屋上から出て行くのを見て、はくすぐったくて笑う――ホント、素直じゃないんだから

よかった、自然にリョーマにお礼が言えて
アニメのことで盛り上がってた事も特に触れてこなかったし。


もしかしたら、意外に越前さんはアニメとか見てたのかも知れない


なんか共通点があるのって嬉しいな、とはにやにやと笑うと、背後の花子を振り返った。

「ねぇ!花子ちゃんのお勧め漫画教えてよ!」