――行くぞ。お前が来ないと、越…の好きな飲み物が分からない
柳はあえて、の事を越前とは呼ばず、下の名前で呼んでくれたのだろう、とは下唇を噛み締めた。
情けない。五つ以上歳が離れている中学生に気を使わせてしまうなんて
幸村に対してもそうだ。
きっと彼は、の話しを聞いてくれる為に真田と柳を、そしてを病室から出してくれたに違いない。
が居る以上、は姉と言う立場で居なくてはならないから――自分がしっかりしなければ、と思うのを見越したのだろう。
俯いて「ごめんなさい」だろうか、「ありがとう」だろうかと言葉を探していたに、幸村は穏やかに声をかけた。
「とりあえず、顔を上げてくれないかな」
先手を打たれてびっくりしたのもあるが、が顔をあげると、幸村が相変わらず暖かな笑みを浮かべているのが瞳に映る。
「やっと俺の目、見てくれたね」
その言葉に、そう言えばさっきから緊張してたのやら何やらでまともに幸村の目を見ていなかったな、と思う。
じっと見つめて見つめられると、綺麗な目に吸い込まれてしまいそうで、
は思わず見入ってしまうのを首を横に振る事で正気を保つと、「あの、その」ととりあえず何か言おうと戸惑った。
「羨ましいんだね、君は」
何の前置きもなく言われた言葉に「え」と言うと、
幸村は「を」と言うと、瞳を伏せた――「さっき、羨ましそうに見てた気がしたから」
どくん、と心臓が痛む。
そんな気持ちをごまかすように、表情に出てたかなと顔を触ると、幸村はくすくすと笑った。
「顔には何もついてないよ。俺、そう言うことに結構敏感だから…。弦一郎は気づいてないよ、絶対」
確かに、幸村が遠まわしに部屋から出るように言った時も、全然気付いてなかったもんな、
とが乾いた笑いを浮かべると、幸村は「それが弦一郎のいい所でもあるんだけどね」と付け足す。
「正直、赤也の妹が他人に入れ替わったらしいなんて聞いた時は、何寝ぼけた事言ってるんだろうって思ったんだ。
弦一郎ってホラ、何でも真に受けるって言うか、純粋って言うか…霊感商法に引っかかりやすそうと言うか
とにかく弦一郎は感情に左右されやすいから、言う事を鵜呑みには出来ないからね」
『これは古来徳の高い坊主が植えたと言う木から作られた壺で、これを持つと全ての災いから護られると言います』
『うむ!たまらん壺だな!いい職をしてる。よし、立海三連覇のために厄をはらって貰うか!』
真田が霊感商法に引っかかる…その光景を頭に思い浮かべたは、思わず噴出しそうになって口元を押さえた。確かに。
「普段なら大して相手にしないんだけど。
今回は連二も一緒になって言うから、実際自分の目で確かめようと思って、を呼んだんだ。
赤也の妹とは数回しか会った事ないけど…言ったろ、俺結構敏感だって。会った直感でね、ホントに違うんだなって思った」
自分を見て感動したのか、キラキラとした目で自分を見る二つの目。
「会って行き成り“お会い出来て光栄です!!もうメッチャファンです、ハグしてください!!”だからね。
連二も言ってたけど、予想しない行動をするって言うか、見てて飽きないよ。君の妹」
褒められてるのだか、けなされているのだか分からない言葉に、は頬を引きつらせるしかない――後で説教だ。
「赤也の妹は、ホントに赤也の妹かなって思う位内気で、いつも他人に怯えた表情しか見た事なかったから。
同じ顔でも、表情一つで全然イメージが違うんだなって驚いた。
それで、聞いたらお姉さんと一緒に来てるって言うから、どんな感じのお姉さんかなと思って会ってみたくなってね」
それで今回お呼びがかかったと言う事だったのか、
単純に幸村に会える事を浮かれていた事の真相に、は何だか申し訳なくなって、俯く。
「あー…ご期待してたようなびっくり人間じゃなくてスイマセン」
幸村はそんなを見てパチパチと二回瞬いたものの、ふふ、と笑って「ホラ、また俯いた」と目を細めた。
「何がそんなに怖いんだい?」
思わず面を上げたを、微笑んだまま、真っ直ぐと幸村の瞳が射抜く。
まるで全てを見透かされそうな目に躊躇すると、幸村は「ああ」と言って「大丈夫だよ」と続けた。
「これは俺のエゴだから、もちろん誰にも言わないよ」
「エゴ…ですか?」
誰にも言わない、と言う言葉よりも、エゴと言う単語が引っかかってが尋ねると、幸村は「うん」と瞼を閉じる。
長いまつげが頬に影を落として、窓から吹き込む風が、少しウェーブのかかった彼の髪を揺らし、
まるで水彩画のように淡い風景だった。
「俺が生きてるって言う証拠を、誰かの手助けになる事で欲しいだけだから」
ああ、この人も怖いんだ
はぎゅっと心臓を掴まれたように眉根を寄せると、膝の上で拳を握る。
死と言う漠然な恐怖に立ち向かう怖さは、私とはまた違う怖さ
そして孤独を噛み締める恐怖は私には分からない――妹が、一緒だから
言葉は自然に、口から滑り出てきた。
「幸村君の言う通り、私、リョーマの姉になりたかったんです。
好きになって貰えないくてもいいから、姉として彼の一番になれるならそれで構わないって思ってました。
実際、リョーマの姉になれて私嬉しいです。
でも、思ってたよりずっと…辛すぎる」
ぐっと喉に何かがせり上げてくるような気がして、頬を生ぬるい水が伝い、
一度堰を切ったらあふれ出してくる想いには泣きじゃくる。
「好きな人が同じ世界に居ない気持ち、私よく知ってます。
大好きなのに、手が届かなくて。手が届かないから恋しくなって。こんなに好きなのに、何で会えないのって毎日神様恨んで。
不二は知った上で何だかんだ言いながら優しくしてくれるけど、私は越前さんじゃない。
私、そんな気持ちを不二にさせるんだなって思うと、苦しいです。
不二の瞳に映ってるのは越前さんで、時々、凄く悲しく笑うから…。
ただリョーマの傍に居たいって望んだ事すらいけなかったのかなって、
私、それを願う事だけが救いだったのに、それすら、いけないんだって。私の願いのせいで、同じ思いを人にさせてるんだって。
日吉は不器用ながら精一杯好きな人に優しくしてるのに、その相手はココに居なくて、私なんです。
でも、打ち明ける勇気がなくて、知られて冷たい態度とられるのが怖くて、
私が今居るのは越前さんが作ったぬるま湯に浸ってるんだって事、嫌でも思い知らされるんです。
それでも、リョーマの傍に居れたら幸せだって思えます。
だけど、やっと、やっとリョーマに会えたのに…!私、越前さんの事考えると、隠れて好きでも居られない…ッ!」
ああ、言いすぎた――頭は冷静にそう思うのに、感情が先走って理解が追いつかない。
浮かんでくる言葉をそのまま口にして、わ、と両手で顔を覆って泣き出したの言葉の意味が分かったのだろう。
幸村はしばしの間躊躇すると、静かに問うた。
「越前さんは、弟が…越前が、好きだったのかい?」
こくん、と頷きだけで返事を返す。
そのまましばらく沈黙が続いて、の泣き声だけが病室に響いていたのだが、
ガタン、と何かの音がして顔を上げたは、涙目に幸村が壁に手を付いて立っているのを見ると、ぎょっと目を見開いた。
「幸村君!」
慌てて立ち上がろうとしたに、幸村は「大丈夫だから、そこに居て」と言うと、
壁から手を離して、一歩一歩おぼつかない足取りで歩いて来る。
彼の病気は作中でも明かされなかったが、全身が麻痺していく症状だと書いてあったような気がして、
時折辛そうな表情を見せながらも近づいて来る幸村を、が涙を流したまま、何とも言えない表情で見ていると、
真正面まで辿り着いた幸村は、ゆっくりとを抱きしめた。
半ば倒れてくるようにかかった体重に、「わ」とが声をあげ、幸村の体を抱きとめる。
ここまで歩いて来るのも重労働だったのだろう、幸村の荒い息遣いが耳をかすめて、
彼の病気の重みを、そして彼が背負っている立海大三連覇と言う大意の意味が否応なしに伝わってきたは、また一粒涙を零した。
「ゆき、むら君…」
とくん、とくん、とどちらのものか分からない心臓の音が聞こえてくる。
「あったかいだろ?君は確かにここに居て、俺は確かに、ここに生きてる…ッ!」
生きてるんだ…と、すがるような言葉が聞こえてきて、は幸村を抱く手に力をこめた。
は幸村が手術に成功し、全国大会には復帰すると言う未来を知っているけれど、
今ここに生きてる幸村は当然知る由もなく、目の前に迫り来る病気と死に、どれ程途方に暮れたことだろう。
――もっとも、今は真田に任しっぱなしだから、部長なんて肩書きだけだけど
真田達がテニスをしている事を、立海が順調に勝ち進んでいる事をどんな気持ちで聞いているのだろうか。
三連覇と言う同じ目標を持っているのに、真田達と違う場所で、一人違うものと戦わなければならない事はどれだけ淋しいだろう。
どれだけ、テニスがしたいだろうか
――俺が生きてるって言う証拠を、誰かの手助けになる事で欲しいだけだから
「私、ホントは誰かに話を聞いて欲しかったんです。
自分が望んでこの位置に来て、ワガママだって事は分かってるけど…それでも、誰かに私と言う存在を認識して欲しかった。
越前さんじゃなくて、私がここに居るんだって事を、誰かに認めて欲しかったんです。
だから、認められてる上に存在を受け入れてもらってるが、羨ましかった。
私にはやっぱりみたいに自分をさらけ出す事は出来ないけれど、
幸村君が話を聞いてくれたお陰で、また少し前を向いて歩いていけるような気がします」
だから幸村君も頑張ってください、と言うのは、あまりに無神経だ。
幸村がどんな気持ちで病気と闘っているかなんて、本人にしか分からない。簡単に口にして言い言葉じゃない
私に、何か出来る事はないだろうか?
「幸村君が生きてる証は、私の中にあります。
私マイナス思考だし、落ち込みやすいし、下手すればどんどん迷走して違う方向に先走っちゃうから。
また、お話を聞いてもらいに来てもいいですか?
…幸村君が生きてる証を、貰いに来てもいいですか?」
肩に乗せられていた幸村の頭が離れて行き、視界一杯に幸村の優しい笑顔が映る――この距離、凄く近いんですけど…ッ!
空気を読め私の心臓!今ココで赤くなったりしたら、真面目な雰囲気が台無しだ!
表情を引き締めようとして失敗したの百面相を間近で見た幸村は「ぷ」と小さく噴出すと、くすくすと肩を揺らして笑った。
「確かにびっくり人間ではなかったけど、君は君で凄く魅力的だよ」
「な――ッ!」
かぁぁあっと赤くなったのが目に見えて分かったのだろう、幸村は更に笑う。
その笑い方で茶化されていたという事に気付くと、はむぅと口を膨らませた。
「もう!からかわないで下さい!」
「ごめんごめん。あまりにも表情に出るものだから、面白くて。
あぁ、そろそろ弦一郎たちが帰って来るかな――悪いけど、ベッドに戻るの手伝ってくれる?」
もう自分一人じゃ歩けそうにないんだ、と苦笑いを零す幸村に、は「もちろん」と言って彼の手を取ると、ゆっくりと立ち上がる。
背中に手をまわして、幸村の歩調に合わせて慎重に足を進めてベッドまで辿り着くと、布団をめくってやり、彼は再びベッドに横になった。
【生きてる証】
――またいつでも遊びにおいでよ、
病院を出て真田達と分かれてすぐ、一応「一人で帰れるよ」と言ったのだが、
すぐにピシャリと言葉が帰って来た――「姉ちゃんの方向感覚が当てにならないのは一番知ってる」
う。と言葉に詰まったが確かにそうだと視線を逸らし、
素直に「お願いします」と言ってしばらく二人で歩いていると、は呆れたようにに首を巡らせる。
「姉ちゃん、顔が間抜け面になってるよ」
「アンタまでリョーマと同じ事言いますか。惚けてるって言ってよ、惚けてるって」
現実に引き戻された。
ちくしょう、皆して間抜け面、間抜け面言いやがって――は一瞬眉根を寄せたものの、
すぐににやにやとした締まりのない顔になった。そんな彼女を見て、全然説得力ないよ、とはため息を一つ零す。
これからは同伴じゃなくても来れるように、道をしっかり覚えておかなくちゃ
今度行くときは何かお見舞いの品持って行ったほうがいいよね、甘いものとか好きなのかな
そわそわと忙しなく辺りを見回すは、言うまでもなく怪しい。
は横目でそんな姿を見ると、先ほどの呆れていた表情から一変、緩やかに微笑んだ。
よかった、元気になって

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