「そう…そんな事があったんだ」

が眠っている布団の脇に腰掛けると、瞳を伏せた。
突然かかってきた電話では、が跡部のファンと思われる女子に絡まれ、
様子がおかしくなったとしか聞いていなかったのだが、詳しく聞けば聞くほど、痛ましい気持ちになってくる。


珍しく眠い様子など見せないジローは、よほど彼女が心配だったのか、主だった説明を全てし、
跡部は先ほどから口も開かず、部屋の壁に背中を預けて座って、複雑な表情でを見ているだけだ。

しかし何を考えたのか立ち上がって部屋を出て行こうとする跡部に、が「どこ行くの」と尋ねると、
彼は眉根を寄せて吐き出すように言葉を返した――「越前の野郎を連れてくる」

弾けるように立ち上がったが、力任せにドアを閉めて、跡部を見上げる。
「それだけは絶対にダメ。今リョーマが来たら、姉ちゃんおかしくなっちゃう」

跡部の表情が、見ているこっちさえ痛くなるほど歪んで、跡部はドンッとドアを叩くと踵を返してもとの位置に崩れるように座った。
「好きなヤツには見られたくねぇってか」


跡部の言葉にはドアに手をかけたままはっと目を開いて、
「どこでそれを知ったの?」と尋ねると、彼は前髪をくしゃりとかきあげて、まぶたを閉じる。

「昨日。爽健美茶を買いに行った時に偶然会ったんだよ。そこで、小坂田と竜崎の立ち話を聞いちまったんだ。俺と、コイツで」
「…大体何を話してたかは検討がつくわ。それで昨日姉ちゃんはへこんでお茶を買ってこなくて、跡部先輩がお茶を買ってきたって訳ね」


淡々と交わされる言葉の意味が分からず、ジローは「どう言う事?」と言うと、声を震わせた――「越前君が好きって、兄弟でしょ?」


ジローの問いに跡部との視線が集中し、二人はそろって口を開いたものの、まったく異なった返事をした。
「ああ」
「違うよ」

僅かに目を開いてを見た跡部に、は首を横に振って「違うの」ともう一度はっきり否定する。
「それって、ちゃんと越前君は血がつながってないって事?」
「ううん。血はちゃんと繋がってる。でも、心が違うの」


心が違う?ますます意味が分からなくなった二人には微笑を零した。
「あたしと姉ちゃんが本当の姉妹なの。あたし達はこの世界の人間じゃない。
ある日突然、姉ちゃんがリョーマのお姉さん、あたしが赤也の妹と心が入れ替わったの」


突拍子もない言葉に、「てめぇ、何ふざけたこと言ってやがる」と跡部が不愉快そうに顔を歪め、
これが普通の反応なんだろうな、とは視線を落とす――立海の皆が信じてくれた事の方が普通じゃないんだ。


「あたしの言う事が信じられないなら、赤也かブン太か真田、もしくは柳、幸村先輩に聞いて貰えば分かる事だよ。
切原さんは、あたしとはまったく正反対の性格で、隠してる間大変だったから。って言っても結構すぐバレたけど。

あたし達二人の世界には、君たちが出て来る漫画があるの。

あたし達は君たちの世界に来たくてしょうがなかった。そして越前さんと切原さんは事情があってこの世界に居たくなかった。
その気持ちが引き金になって入れ替わったんじゃないかって言うのが姉ちゃんの見解なんだけど、詳しいことはよく分からない」


真田や柳、そして幸村の名前が出てきた辺りは少し説得力があったようだが、
自分達が漫画に出てて、彼女達が異世界の人間だなんてにわかに信じられる話ではなく、跡部はイライラと足でたたみを叩く。

「ま、別に信じても信じなくても勝手だけどね。証拠なんてどこにもないし。
ただあたしが言いたいのは、姉ちゃんがおかしくなったのは跡部先輩が傷つく必要はないって事だよ。

姉ちゃんはね、人が怖いのを思い出しただけだと思うから」


「人が怖い?」と、ジローは首を傾げると「でもでも」と身を乗り出した。
「俺と初めて会った時も、跡部達と会った時も普通だったよ?」

「それは、あたしと姉ちゃんが君たちの事を知ってたから。
君たちの人柄も大体は把握してるし、萌が勝つというか初対面とは思えないって言うか。

多分だけど、こっちの世界に来てから姉ちゃんはあからさまな敵意を感じなくて人に対する恐怖を忘れていたのが、
今回の件で思い出して、今までの反動が全部来たんじゃないかな」


思えば忙しすぎたのもあるのかも知れないけれど、こちらに来てからのは随分普通だったような気がする。
一緒に歩いててもちゃんと前見て歩くし、人の眼も気にせずに笑うし、元の世界に居た時の彼女とは思えない程しっかりしていたのが、

立ち直った訳ではなく、恐怖を忘れていただけなのだと思えば納得も行く。


「昔姉ちゃんに何があったとかは姉ちゃんの口から聞かなくちゃ分からない事だと思うけど、
あたしが言えるのは、あんなに堂々としていた姉ちゃんの方が普通じゃないって事かな。

元の世界に居た時姉ちゃんほとんど外にも出ないし、あたしが一緒じゃないと街歩けない時期もあったしさ、
ちょっと何かあっただけで滅茶苦茶へこんで立ち直れないし、死にたいってよく泣いてたし。それが普通だったの。

だから、跡部先輩がきっかけになったとしても、いずれは向き合わなくちゃいけなかったんだよ。いい人ばっかりの世の中じゃないからさ」


淡白な物言いに、ジローは「ちゃんも人が怖いの?」と尋ねると、はカラリと笑って言葉を返した。
「あたしは別に怖くないよ。ただ、他人と距離を取るのが当たり前なだけ、人を信用できないの。
あたし達姉妹は、他所の兄弟とかよりよっぽど仲がいいし、お互いを必要としたり、信頼してる。

だからこっちの世界に来た時も、いきなり放り出されて多少なりとも不安だったけど、二人なら大丈夫かなって思えた位だし」


それまでの話しを黙って聞いていた跡部は、仏頂面のまま尋ねた。
「何でそんな事俺達に話したんだ。あぁん?いくらあの現場に遭遇したと言っても、適当にごまかせば分かんねぇだろ」

跡部の言葉にはパチリと瞬くと、「跡部先輩だからだよ」と微笑んだ。
しかし一瞬何かを考えるように天井に視線を走らせると、尋ねかけて止め、言葉を変える。

「跡部先輩、本当は姉ちゃんが太ってて、今みたいに可愛くなくて、人生に悲観的で。
アンタとまったく間逆の人間だとしても、もし姉ちゃんの事好きって…ううん、それは今からまた姉ちゃんを見て決めてくれていい…

姉ちゃんね、こっちの世界でちゃんと理解してくれてるの多分幸村先輩だけだと思うんだよね。
あたしは真田も柳も、ブンちゃんも…赤也も居るけどさ、姉ちゃんはリョーマには最後まで隠し通すつもりみたいだし。

って言っても、知られて拒否されるのが怖いから知られたくないんだと思うけど。

跡部先輩ってさ、姉ちゃんは多分一生関わらないタイプの人間なんだよね、自信があって眉目秀麗で、俺様で。
そう言うの必要以上になくてもいいけど、姉ちゃんが多分持たなくちゃいけないものなんだ。

こう言う機会がないと、姉ちゃん逃げ回ると思うのさ、苦手意識が強いから。

幸村先輩とは違う意味で、跡部先輩は姉ちゃんに必要な人なんだよ。
だからこそ跡部先輩にはちゃんと姉ちゃんって言う存在をわかって欲しかった、越前さんとしてじゃなくて」


あたしの勝手な判断だから、姉ちゃんに怒られるかもだけど、とがおまけのように付け足したとき、
「うん」と小さな声が聞こえて、の瞼が動いた。

「…ここ…」

目を開けたは、一瞬どこか分からないように天井に視線を走らせたものの、合宿所だと気付いたら「ああ」とため息混じりに呟く。
「目、覚めた?」

が顔を覗きこむと、は「ごめん」と謝って腕で両目元を押さえた。

苦虫を噛むようなの言葉にジローが何か言おうと口を開いたのだが、
は唇に手を寄せて頭を振ると、同じタイミングでが口を開く。
「跡部君とジロー君に申し訳ない事したなぁ…」

視界が真っ暗になったことでまさか同じ室内に居るとは思わないのだろうがそう言うと、は「そだね」と相槌を打った。
「特に跡部君、あんな怯えた目で見ちゃったら気分悪くするよね。
せっかく跡部君の事、元の世界で見たものが全てじゃないんだなって、苦手だって思ってて悪かったなって思ったのに…

ちゃんと跡部君の事知る前に、嫌われちゃったかなぁ」
「そんなわけないじゃぁん。ね、跡部先輩」

呼ばれるとは思わなかった跡部は、何も飲んでいないのにむせかえった。
その声が聞こえたは目元に押さえていた腕を離し身を起こすと、声のした方を凝視したまま動かない。


「跡部、くん?」
動揺が隠しきれない様子で、跡部を呼ぶが、
跡部も気まずそうに顔を伏せたまま何を言おうともしない。


沈黙に耐え切れずどう言う事、とに向けられた視線に、はペロリと舌を出して「赤也と仲直りした時のお礼」と笑った。
あの時は確かが顔を俯かせたのをいい事に、
が赤也が居る事を教えずの本心を赤也に聞かせたのだが、まんまとお返ししてきたわけだ。

そんでもって、とは鞄から財布を取り出すと立ち上がる。


「ジローちゃん、姉ちゃんに飲み物買うから着いて来てくれない?
“アホベ様”の好みわかんないし。特別にジローちゃんとアホベ様の分は奢ってやろう。今日お世話になったし」

この手は幸村の病室で、幸村とを二人きりにする為に柳がついた嘘だ。
とは言っても態のいい言い訳なのは全員に筒抜けなのだが、この際仕方ないとジローの腕を掴んで外に出ようとしたに、
待って、とすがるようにが小さく呟いたが、あえて聞こえないふりをして部屋を出て行った。



【天使みたい】



扉を閉めた瞬間、はジローの腕を離す。
振り向きざまにジローに微笑むと、は人差し指を指した。

「あたし、不器用なアホベ様の恋も応援するけど、ジローちゃんの恋ももちろん応援してるから。
ま、どっちが勝つとか負けるとかより先に、ちゃんをどっちが立ちなおらせるか、が第一だね」


つまり、の心を射止めることより、心を癒す方がにとってはポイントが高い、ということだろう。
ちゃん”と呼び方も以前に戻っているし、は既に跡部とのことを安心しきっているようで、
ジローの心中は穏やかではないが、はそれすらお見通しのように言葉を続ける。

「今の情報はジローちゃんだけだからね。今の状況じゃジローちゃん不利だもん。
あたし、こういうの好きなんだよねぇ。賭けっていうの?

あ、でも幸村先輩も結構いい位置陣取ってるんだよね。何か雰囲気もいいし、あの二人」

しかし自分の姉に恋心を抱いている男に向かって「賭けが好き」なんて言うものなのか、普通。
でも、それもある意味らしくて、ジローもに負けない位の満面の笑みで明言した。
「うん。今のちゃんに跡部が必要でも、俺も跡部に負けないように必要になるつもりだから」







お互いに何も言わず、と言うよりも何も言えずに沈黙が部屋を満たしている。
「あの、跡部君…」

先に口を開いたのはで、話しかけられた跡部は眉間に皺を作ったまま、まだ何も言わない。
そんな跡部の顔を見ていると、やはり自分は彼が傷つくようなことをしてしまったんだ、と自覚させられる。

(そうだよね、何もしてないのに自分の顔を見て怯えられたりしたら、私だって嫌な思いをする。
今更謝るのも変だし、そもそも謝ると言うのはちょっと違う気がするし…)

「聞いた」

それは先ほどの事件とはまったく関係ない単語なのは明白な上に、その一言伝えただけで、にも跡部の言っている意味がわかった。
――は、跡部に伝えたのか。全部を


まったく無用心に喋って、とも思うけど、きっと自分の為なんだろうなと言う事は簡単に推察出来る。
そうじゃなきゃ、あの子が怒られる事覚悟で人に喋るはずがない。の為に必要なのだ、とが思ったのだろう。

それが分かった上で「そっか」とは布団に視線を落とすと、顔を上げて苦笑いを零した――「信じられないでしょ、普通」
「ああ。証拠がねぇから信じても信じなくても勝手だとさ。下手に言葉並べられるよりよっぽど説得力があるぜ」

自分が必要だ、と断言したの顔が浮かんで、跡部はため息をついて立ち上がると、の布団の脇にあぐらをかいて座った。
突然近くに来た跡部にぎょっとが目を開くと、跡部は「で?」と眉根を上げる。


「てめぇ、ホントはいくつなんだ?」
「…何、急に」

「昨日の夜。この歳になって…とか言ってただろ」


ああ、とは手を叩き、そう言えばそんな事を口走ったんだったと思い出した。
今更取り繕う言い訳も、必要性も浮かばなくて、でも何となく言いづらくては「19歳」と言葉を濁す。

何となく恥ずかしくなって俯くと、跡部は拍子抜けしたような顔をした途端、ぷ、と小さく噴出した。
「おま、19にもなってコーヒー飲めねぇって…ッ!どんだけガキだよ!」
「し、失礼な!大人になってもコーヒー飲めない人なんてごまんと居るし、大体跡部君達が中学生らしくないんだよ。
私達の世界の中学生なんて、小学生がすこ――しだけ大人になったって感じなんだから!」

親指と人差し指で一センチ位の距離を取って力説する姿に、
跡部はますます年甲斐がないなと笑ったが、不意に真面目な顔に戻ると、真っ直ぐとを見据える。

「辛い思い、させたな」

その言葉が例の少女達を指しているのは明白で、は「いいえ」と言うと「私が悪いから」と首を横に振った。
「跡部君が悪い訳じゃないよ。
ああ言う人たちは一杯居るし、あの人たちに変わって貰うんじゃなくて、
私が平気になるようにならなくちゃって思うんだけど、いざとなったら身がすくんじゃって…。

跡部君があの子達注意してくれなかったら、私あの店からきっと逃げてたと思うから。ありがとうございました。

後、私誤解してた。
跡部君私が苦手なタイプだし、出来る事ならあんまり関わり合いになりたくないなって思ってて、
が氷帝に資料届けに行くから着いて来て欲しいって言われた時も、正直、嫌々ながら着いて行ったんだ。

でも、漫画の中の跡部君だけが全てじゃないんだなって昨日思った。

だから、ファンの人たちはやっぱり怖いけど、これからちゃんと跡部君を見ていこうと思う」


何故あの時立海の生徒が青学の生徒を連れてきたのか疑問だったが、これで一本の線に繋がったと言うものだ。
跡部が口端を引っ掛けるように笑って、「お前、絶対俺に惚れるぜ」と言いかけた時、弾けるようにドアが開いてジローが飛び込んでくる。

ぎょっと目を見開いたと跡部が唖然としていると、が「まだ早いってジローちゃん!」と後ろから追ってくるように声が聞こえ、
ジローは聞き流すと、飛びつくようにに横から抱きついた。


「うわ!?」
「ねぇねぇ、俺ね思ったの!」


頼むから普通に驚かせてくれ、とが切実に思うのも露とも知らず、ジローは輝くような笑顔を浮かべる。
「あのね、初めて会った時、ちゃん俺の事天使みたいだって言ったでしょ?」

行き成り何の話だ――と跡部、それにジローを追って入ったがぽかんとした表情でまくしたてるようなジローを見る。
「俺、ちゃんの方が俺よりず――っと、ず――っと天使みたいだなって思うよ!
だってね、眠ってる人見て天使みたいだなんて綺麗な言葉言えるんだもん。すっげぇ真っ白で、あったかくて…

だから、俺よりちゃんの方が天使みたいなの!」

「それはジロー君が天使のように可愛い寝顔だったからつい出ちゃった訳で。
私ホントはすっごく太ってるし、全然可愛くないんだよ?天使なんて柄じゃないって」

あははと笑ったは、ジローの顔が真顔に戻ったのを見ると、びくぅっと身をすくめる――なんか、顔が怖いんですけど…

「そう言うのは、ちゃんが決める事じゃないよ。
だって俺の中でちゃんが綺麗だなって決めるのは俺自身だもん」


でも、ジローは本人を見た訳じゃない訳で、とが卑屈な考えに走っていると、ジローは「あ」と言って両肩の手に力を加えた。

「今、本物の自分見てないからそんな事言えるんだって思ったんでしょ!
だいじょ――ぶ!俺、本物のちゃん見ても絶対綺麗だなって思うよ。だって、見てくれは違ってもちゃんはちゃんだもん」


見てくれは違ってもちゃんはちゃん


そんな事、考えた事もなかった
今の私は越前さんで、越前さんを演じなくてはならなくて

私は越前さんの体に入ってるから、皆が見てるのは越前さん。だけど、私は私


「…泣いてるの?」
ジローの指が頬に走って、その時初めて自分が泣いていることに気付いた。

この世界の人はどうしてこんなに優しいんだろう。欲しい言葉をくれるんだろう。
居心地がよすぎて、帰るのが嫌になるほどに

「ありがと。ジロー君、跡部君も」

ここに来れて、本当によかった


「…たいした事じゃねぇ」
「うん。俺、ちゃん大好きだから!跡部には絶対負けない!」

「あはは。ありがと。でも何でそこで跡部君が出て来るの?」

ピシッと跡部が固まる音と、が噴出す音が重なる――報われないね、アホベ様
ジローは確信犯のようで「別に気にしなくていいよ」と言うと、
緊張の糸とテンションが落ち着いたのか、うとうととし始めた為、八つ当たりもかねて跡部がジローの頭を叩いた。

「寝るな。そろそろ練習に戻るぞ」
「ごめんね、私のせいで練習時間潰しちゃって」

「あたしもマネに戻るわ。姉ちゃんは大事を取って今日は休みなさいって。一応日射病で倒れたって事になってるから」
「うん、ありがと」


ジローを引きずるように出て行く跡部と、ひらりと手を振るを見送って、は窓の外に視線を走らせる。

この世界に居れるのはいつまでだろうか
不意にそんな事を考えて、ああまたに怒られるなと笑った。


今を精一杯生きよう、彼らとともに
それが私達がここに来た望みなのだから


姉編  妹編